内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(3)

charis2008-02-07

[読書] 内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(’08年1月、文芸春秋社)


(写真は、J.G.ヘルダー(1744-1803)。「私らしさ」について明示的に語った哲学者の一人。「人間らしいあり方といっても人それぞれ独自のやり方がある。彼には彼自身の、彼女には彼女自身の”ものさし”がある」「人さまのまねをするのではなく、自分なりのやり方で自分の人生を送ることがこの私に求められている」等の考えを述べた。)


前にも引用したが、内田氏は次のように述べていた。これは優れた指摘なので、さらに先を考えてみたい。
>現代において「隣人愛」がすたれたのは、若者が自己愛に夢中になったからではない。「本当の自分」という錯覚のせいで(=「本当の自分」だけを愛したい)、自分を愛するとはどういうことかが分からなくなり、その結果、隣人を愛する仕方も分からなくなったのだ(p274)。


自分自身をうまく愛せない人は隣人を愛することもできない(内田氏、p274)。自己愛は隣人愛の基礎でもある。人は誰しも、自分についての「肯定的なイメージ」がまったくないならば、生きていくのが苦しい。その意味では自己愛は必要なものであり、「ナルシシズム」一般がいけないのではなく、問題はその中味なのだ。内田氏は言う。
>自分自身を愛するというのは、自分自身の中に存在するさまざまな「不快な人格要素」となんとか折り合って暮らしてゆくということである。隣人を愛するというのも、それと一緒である。「愛する」とは十全な理解と共感に基づくものではない。そうではなくて、なんだか「よくわからないもの」を冷静に観察し、その「ふるまい方」のパターンをよくわきまえた上で、涼しい顔をして受け容れることである。その訓練を私たちはまず自分自身について行うのである。おのれの内なる他者と共生できる能力、おそらくはそれが隣人を愛する能力・・・にまっすぐ繋がっている。(p276)


これは自己愛についての、きわめてまっとうな理解である。もし「私」というものの優れた在り方が、「おのれの内なる他者と共生できる能力の高さ」であるならば、そのような自己愛は少しも悪いものではない。ではなぜ、否定的なニュアンスとしての「自我のナルシシズム化」が言われるのだろうか。その理由の一つは「自我の純化」路線にある。「自分らしいピュアな自分」(p275)を求めたくなる傾向、この「ピュアな自分」への欲求はどこから来るのだろうか。内田氏はこれについては何も述べていないが、たとえば社会学者の土井隆義氏はきわめて貴重な示唆を与えている(『個性を煽られる子どもたち』2004年9月、岩波)。これについては、私のブログですでに紹介したが(2006年9月9日)、内田氏の主張と関連する部分だけ、もう一度取り出してみたい。


土井氏は現代の子供について、次のように述べている。
>現代の子供たちは、大人も驚くほどの高感度な対人アンテナをつねに張り巡らしており・・・、フィーリングの合う相手とだけ親密な関係を築こうとしている(p61)。この「親密圏」における人間関係を大切にし、その維持に大きなエネルギーを傾けるので(たとえば、いつもケータイメールで繋がっていないと不安になる)、「その関係の外部に意味ある他者を見出す余裕がなくなる(22)。昔は、ある種の客観的な(たとえば教師と生徒という)社会関係による役割意識によって、子供と他者との関係にはそれなりに「公共圏」も存在した。しかし現代の子供は、自分の感覚に適合するか否かという「親密圏」の引力が強すぎるので、社会の中での自己規定という側面が後退してしまう。


>「個性」の理解も従来とは変容している。かつての「個性」は、他者との関係の中で自分に固有の在り方を見出し、そこに養われた自己肯定感が「個性」理解の核を成していた。しかし今の子供は、同質的な仲間と感覚的な好悪によって閉じた「親密圏」を作るので、対他的に見出される契機を自分の「個性」として育んでゆくことが困難になっている。それにもかかわらず、社会規範においては、「個性的であることがよしとされる」ので、子供は自分の「個性」を内閉的な自我の内側に発見しなければならなくなる。つまり、「磨けば光るダイヤの原石のようなものが、もともと自分の内部に備わっているはずだ」(27)という、「私探し」が必要なのだ。でも、自分の内部にはなかなか見つからず、焦燥感がつのる。若者が「個性」と同じ意味で使う「キャラが立つ」という言葉は、もともとテレビ局などの業界用語で、意図的に演技・誇張されたキャラクターを意味していたが、今ではそれが変容し、演技ではなく、自分に自然に備わっているパーソナリティ、つまり「素(そ)の自分」を意味するものになった(24f)。


ケータイやネットによるコミュニケーションは、同質的な部分だけを集めて、ある種の「親密圏」を構築したいという動機を孕んでいる。そして、その「快」を私たちはよく知っている。「オレはオレ的にオレが好き」という若者も、決して他者に無関心なのではなく、むしろ「高感度な対人アンテナをつねに張り巡らしており・・・、フィーリングの合う相手とだけ親密な関係を築こうとしている」(土井氏)のではないだろうか。同質的な要素を繋げることが、技術的にも社会的にも可能になったことが、自我の「純化」を促進し、私の内部の異質な要素との共生を「不快」なものに感じさせるようになる。昔ならば、人間は、時空的に自分の身体のすぐ周囲にあるものとしか繋がることができなかった。だが今は、誰もが絶えずケータイを覗き込んで、時空的に離れた他者と繋がっていることができる(かく言う私はケータイは持っていないが)。とすれば、身体を取り囲む直近の他者としての「家族」の力も、相対的に弱くなることは避けられない。


事態がそのようなものであるとすれば、我々は「自我の純化」の傾向をある程度は認めて受け容れなければならないのかもしれない。フロイトの「快感原則」ではないが、我々は「快」を求めて「不快」を避けようとする傾向をもつ。「ピュアな自我」を求める若者自身が、そのことが生み出すマイナス面の「不快さ」との折り合いをどう付けるかに、結局、問題は帰着するだろう。時空を越えて同質的な要素と繋がることが技術的に可能になった以上、「閉じた親密圏」や「ピュアな自我」への欲望は、結婚や家族をゆるやかに変容させていくことになるだろう。


内田氏は、「合コン」はもてる男女だけが勝つゲームだから、若者の結婚を促進することにならず、「見合い」の習慣をふたたび定着させなければならないと言う(p66)。だが、これはかなり難しいのではないか。経済的収入が家族単位で(ということは家父長単位で)しかありえなかった昔と違って、女性が個人で自活できる現代は、「嫁にもらわれ」なければ生きていけないという前提がすでに崩れている。「見合い」が成り立ったのは、そういう強制の前提があったからである。もはやそれがない時代には、若者の生き方も違ってくる。「いい人が見つかれば結婚するが、そうでなければ別に結婚しなくてもいい」と若い女性が言うのは、別にワガママではなく、それが可能な社会的現実があるからだ。


若者の未婚率が高まっており、将来の生涯未婚率の予測は20%強だと言われている。低賃金労働を強いられて結婚できない若者については、フリーターの正社員化など、社会レベルでの支援が必要である。ただ、結婚できる条件はあるが結婚しない若者というのが、現代の新しい問題である。未婚率のこの数値をどう考えるかだが、5人のうち4人も結婚するなら、それでいいじゃないかと考える人もいるだろう。皆が結婚しなければならないような社会の方が、かえって窮屈なのではないか。ひょっとすると、「新石器時代にもポストモダン社会にも共通な人類学的原理」(p32)そのものが、そろそろ"賞味期限"を迎えているのかもしれない。