二期会『ワルキューレ』

charis2008-02-24

[オペラ] ワーグナーワルキューレ』(二期会公演、東京文化会館)


(写真右は、アムステルダム歌劇場、下は順に、バイロイト祝祭劇場メトロポリタン歌劇場の『ワルキューレ』。)


演出はベルギーのローウェルス、指揮は飯守泰次郎。『指環』四部作の二番目の作品。上記写真のように、お金をかけた豪華なスペクタクルでというわけにはいかないが、十分に楽しめるものだった。ワーグナーの魅力は、何といっても、神話を生き生きと我々に蘇らせてくれるところにある。ギリシア悲劇は、上演に際してある種の様式化に工夫をこらさないと、我々に強い感動を呼び起こすものにはならない。古代人の感情を再現するというのは、むずかしいことなのだ。オペラにその可能性を求めたのは、ワーグナーの卓見というべきだろう。『指環』は、神々が自分の創った人間たちに乗り越えられてしまうという壮大な神話で、神が自分の没落と引き換えに人間に自由を贈与するという点で、どこか『旧約』のヨブ記などに通じるところがあると思う。


ワルキューレ』は、人間への自由の贈与が、神々の王たるヴォータンとその娘ブリュンヒルデとの愛の葛藤を通して描かれる点に、芸術的にも思想的にも際立ったこの作品の特徴がある。ブリュンヒルデは、いわゆる「父の娘」の典型であり、彼女の意思は父神ヴォータンの意思であるというほどに、彼女は父の分身である。彼女は歌う、「お父様の意思でないのだとしたら、私はいったい誰でしょうか? Wer bin ich, waere ich dein Wille nicht?」 しかし、それほどまでに忠実な娘ブリュンヒルデは、半分人間であるジークムントとジークリンデの死を賭けた純愛の力に負けて、父の命令にそむいてジークリンデを助けてしまう。その罰として、ブリュンヒルデは父ヴォータンによって、神性を剥奪されて、神から人間に降格される。ヴォータンは娘を神々の一族に嫁がせたかったはずだが、みずから父娘関係を断ち切った以上、ブリュンヒルデの夫は人間であらざるをえない。神々から人間への「大いなる移譲」が、こうした偶然を通じて実現するのである。炎で囲んだ箱の中に彼女を寝かせ、長い眠りにつかせるところで『ワルキューレ』は終わる(上記、中央の写真)。この第三幕の終盤、娘に別れを告げる父神ヴォータンの歌には、魂の深いところから湧き上がる娘への愛と悲しみが比類のない美しさで表現されている。ここは、ワーグナー音楽の白眉の一つだが、さすがに涙を禁じえなかった。


将来、炎の箱の中からブリュンヒルデを解放して、妻にする人間について、ヴォータンはこう歌う。
>花嫁を自由にできる者は、神であるこの私よりも自由な者だけだ。(Denn einer nur freie die Braut, der freier als ich, der Gott!)

娘に対する愛情表現として、これ以上の言葉があるだろうか! そして、幼な子ブリュンヒルデの瞳がどんなに可愛いかったかを回顧して、別れの接吻をしながら、こう歌う。
>瞳よ、私より幸せな男の前で星と輝くがよい!(Dem gluecklichern Manne glaenze sein Stern.)

並みの父親でも、娘に向かって、「よい男と結婚して、幸せになれよ」くらいのことは、心の中で言うことはあるだろう。だがヴォータンの言葉には、それよりずっと強いものがある。「神であるこの私よりも自由な者」「私より幸せな男」と比較級が使われているのだ。つまり、ブリュンヒルデの夫になる人間は、神であるヴォータンを追い越す。ここには、自由を人間に贈与する代償として、神々自身が没落することが予感されている。父と娘の愛を通して、神の没落と人間の自由が謳われるところが、『ワルキューレ』が比類なき美しい神話であるゆえんだろう。


今回の舞台写真を見つけたので貼ります。上は、ジークムントとジークリンデ、真ん中は、後方にいるのがヴォータン、フリッカ、ブリュンヒルデ、下は、火に包まれるブリュンヒルデと悲しむヴォータン。