土井隆義『友だち地獄』(3)

charis2008-04-08

[読書] 土井隆義『友だち地獄−「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書、08年3月)


(写真は、ダリの絵「パリスの審判」、1950。アテナ、ヘラ、アフロディーテの三女神を美人コンテストで競わせ、勝者にリンゴを与えるイケメンのトロイ王子パリス。パリスも女の子ふう?)


本書の第1章「いじめを生み出す<優しい関係>」において、土井氏は「いじめ」について興味深い分析をしている。学校現場でのいじめは、この20年間に大きく変化した。80年代前半と2006年の文科省の「いじめ」の定義を比較してみよう。
>自分より弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの。(80年代前半)
>当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。(2006年)


変更点は、「自分より弱いものに対して一方的に」が消えて、「一定の人間関係のある者から」に代わったことである。昔のいじめは加害者が特定的であり、グループを仕切る非行少年のボスがいたりもしたが、現代のいじめは、加害者も被害者も入れ替わり、特定の人物に固定されない。まさに「一定の人間関係のある者」ならば、そのつどの状況に応じて誰でも加害者になりうる。このように「いじめ」が変化した原因として、子どもたちの人間関係に土井氏は注目する。


>現在のいじめには、日常的にその行為が広げられていくまさにその過程において、他人との違いに対する感受性が研ぎ澄まされていくという独特のメカニズムが見られる。(p16)
>現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認し合いながら人間関係を営んでいる。周囲の人間と衝突したり反感を買ったりしないように、繊細な気配りをしている。・・・このような「優しい関係」は、自分の身近にいる他人の言動に対して、つねに敏感でなければならないので、親密な人間関係が成立する範囲を狭め、他の人間関係への乗り換えを困難にし、外部の関係にまで気を回す余力を失ってしまう。(17)


ある中学生が作った川柳に、「教室は たとえていえば 地雷原」というのがあるが、地雷を踏まないように人間関係に細心の注意を払っている気苦労が伝わってくる。こういう閉塞的な「優しい関係」は、場の空気が重くなるので、それを軽くする方途が求められる。それは、「互いの関心の焦点を関係それ自体から逸らして、・・・互いのまなざしをいじめの被害者へ集中させ、・・・対立の火種を押さえ込もうと躍起になって重くなってしまった人間関係に、いわば風穴を開けるテクニックの一つである。」(19) つまり、”空気抜き”の祭りのようなものとして「いじめ」が行われるのである。


このような「いじめ」は「おちょくり」や”遊び”との境界線も曖昧になる。2006年に福岡県で中学生が自殺した事件では、被害生徒も笑顔を絶やさなかったので、いじめていた側の生徒も「笑っていたからいじめになるとは思わなかった」と弁明している(31)。「いじめの外面を遊びのモードで覆う」(同)ことは、子どもたちの間で”お笑いキャラ”が人気を博すこととも関係がある。今の子どもたちの間で尊敬され人気があるのは、生真面目で勉強ができるだけの子ではなく、皆を笑わせてその場の空気を盛り上げられる子である。大人の世界でも、TVなどでお笑い芸人が活躍するのは、繊細で難しい人間関係に「風穴を開けるテクニック」が高く評価されるからに他ならない。


『友だち地獄』という書名が示すように、子どもたちの「優しい関係」が孕む難しい問題は、しかし子どもだけのものではない。そこには、我々大人を含む普遍的な課題が存在している。土井氏は、「優しい関係」を生きる若者に大きな共感を抱いている。「私自身にしても、本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない。・・・この歳になっていまだに成熟したという実感をもてないまま、なかば自分自身について考えたものだからである」(231)。こうした共感が、土井氏の考察を深いものにしており、「優しい関係」と「いじめ」の関係についての氏の考察は、人間心理の深層を捉えている。すなわち、「優しい関係」は人間関係の「軋轢」を巧みに封じ込めているので、何かのきっかけにその「軋轢」の香りを嗅いだ我々は、そこに興奮、陶酔、カタルシスを覚えるのである。こうした我々自身と真摯に向き合うことこそ、重要な課題であろう。氏の文章を引用しておこう。特に最後の一文が印象に残る。


>[我々は]「優しい関係」を円滑に営むための高感度な対人レーダーを作動させているから、周囲の人々の何気ないふるまいにも敏感に反応することができる。・・・そして、遊びのモードでカモフラージュされ、その背後に押し込まれた軋轢の香りを、なおも鋭敏に嗅ぎ取ることができる。いや、むしろ遊びのモードでカモフラージュされているからこそ、その隙間からちらりと顔を覗かせる軋轢の香りに鋭敏に反応し、そこに大きな興奮と陶酔を味わうのだともいえる。あからさまな[本物の]喧嘩を眺めている時よりも、たとえばプロレス観戦中に突如として始まった場外乱闘に対しての方が、よほど観客は熱狂することだろう。ひとは、隠された意味の層があらわになろうとするまさにその瞬間にこそ、大きなカタルシスを覚えるものだからである。(p33)