グート演出『フィガロの結婚』

charis2008-04-25

[オペラ] ザルツブルク音楽祭製作『フィガロの結婚
東京文化会館


(写真は2006年のザルツブルク音楽祭より。右は、スザンナとケルビム(ケルビーノの分身)、下は、舞台全景と、伯爵と伯爵夫人。空間を縦、横、斜めに走る直線の美しさ、白、黒のコントラスト、そして青みがかった光線の使用など、実に美しい舞台装置だ。)


2006年ザルツブルク音楽祭のクラウス・グート演出『フィガロ』の東京公演。とはいえ、歌手もオケ・指揮者も違うので、そのものの再演ではない。2006年の公演は、「陰鬱なフィガロ」という画期的な新演出と、ネトレプコのスザンナ、シェーファーのケルビーノなど”夢の歌手陣”が大きな話題を呼んだ。DVDを見た私は、従来の演出とあまりにも違うので、ブログにかなり否定的な批評を書いたことがある。↓
http://d.hatena.ne.jp/charis/20070808
そのときは、「陰鬱さ」「幸福感の乏しさ」ばかりが気になったが、今回、あらためて実演を見て、演出の意図がかなり理解できたように思う。


まず、第1幕末尾。「もう飛ぶまいぞこの蝶々」のケルビーノいじめが凄い。スザンナと深く抱き合っていたケルビーノを荒々しく引き剥がしたフィガロは、ハサミで彼の髪を切るだけでなく、伯爵が差し出すナイフでケルビーノの腕を切り裂き、鮮血を顔に塗りたくる。喜んだ伯爵はチップを取り出し、フィガロは満足そうに受け取る。二人が協力してケルビーノに暴力を加えるこのシーンは衝撃的だが、要するに、ケルビーノは二人の”本物の敵”なのだ。フィガロにとってはスザンナに言い寄る男、伯爵にとっては夫人に言い寄る男だから。女をめぐる男の戦いとして、対ケルビーノでは、二人の利害は一致する。ケルビーノが中心人物で、その両側に憎悪に満ちた二人の男がいるという構図。


この構図の陰画が、続く第2幕の冒頭、ケルビーノに恍惚となる二人の女という構図になる。「恋とはどんなものかしら」を聞くスザンナと伯爵夫人は恍惚となって夢遊病者のように舞おうとする。続くスザンナと伯爵夫人がケルビーノを「女に着せ替える」はずのシーンは、きわめてエロティックなもので、女装はない。うっとりとした表情でケルビーノのズボンを脱がしたスザンナは、仰向けに横たわり、自分の胸をケルビーノにさわらせる。その次には伯爵夫人が取って代わり、二人で交互にケルビーノを愛撫する。男としてのケルビーノが中心にいて、二人の女が両側にいるという構図。第1幕の「蝶々」とちょうど裏返しになるこの対称的な構図を通じて浮かび上がるのは、『フィガロ』の中心人物をケルビーノとする明確な演出意図である。クラウス・グートはプログラムノートで、「フィガロをはじめすべての人物が、通常の固有名をもつのに対して、ケルビーノだけがアレゴリーとしての名を持つ」と述べている。つまりケルビーノは「愛」が人間の仮象をまとった神話的形象なのだ。この解釈に立つと、パントマイムの分身ケルビムが、登場人物たちを繰り人形のようにあやつるのも理解できる。


第2幕、スザンナが衣裳部屋から出てくるシーンは、通常は伯爵の突きつけた刀の先にスザンナが現れるのだが、グート演出はまったく違う。夫人の「不義」を激しくなじった伯爵が、夫人を押し倒して覆いかぶさっているところに、スザンナが出てくる。もはや夫婦愛などではなく、夫婦間レイプという構図である。伯爵と夫人は、もはや修復不可能な憎しみの関係になっている。そして第3幕、伯爵がスザンナを誘惑するシーンは、スザンナも嬉しそうに騎乗位になり、それを階段の上から悲しそうに見下ろす伯爵夫人。要するに、スザンナと伯爵はすでに深い関係にあるという解釈だ。フィガロとの結婚を機に、伯爵との関係を清算したいスザンナに対して、関係を続けたい伯爵、そして二人の関係をよく知っている夫人という構図だろうか。


このように解釈しても、たしかに全体は、各人の科白が整合性をもつ物語であるように思われる。第3幕の伯爵の「召使たち許さんぞ」のアリア、第4幕フィガロの「女は魔物」のアリアなど、本物の激しい憎しみの歌とも取れる。ボーマルシェの原作であるフィガロ三部作では、第三作『罪ある母』では、伯爵夫人はケルビーノの子を産むのだから、全体として、かなりシビアな物語なのだ。このような解釈を一貫させるクラウス・グートは凄いと思う。2008年ザルツブルグ音楽祭の『ドンジョバンニ』、ハンブルグ歌劇場の『指環』全曲など、演出予定が目白押しで、ドイツ一の人気演出家になりつつあるというのも理解できる。


とはいえグート解釈だと、フィガロ一人が完全に欺かれているわけで、初夜権が何たらかんたらとか、「花嫁に純潔のベールを!」とかいうフィガロの科白はどうしようもない茶番になる。スザンナはフィガロを最初から最後まで騙し通す凄いワル。第4幕のフィガロのアリア「寝取られ亭主」云々も、掛け値なしの真相なのだ。だが、そうなると、音楽の力によって対立と分裂に”調和の奇跡”をもたらすモーツァルトのもっともモーツァルト的なところが、希薄になることは否めない。クラウス・グートは、登場人物たちの修復不可能な分裂と憎しみを前景化することによって、ぎりぎりの地点でモーツァルトの”調和の奇跡”の音楽を試練にかけているのかもしれない。"神の音楽"と綱引きをするとは、大胆不敵な精神だ。最後の大団円でケルビーノ一人が倒れて死ぬ(?)のだが、これはひょっとして、愛の狂乱から日常性への回帰を示唆しているのだろうか。上演では、歌は、伯爵夫人(エイリン・ペレス)と伯爵(スティーヴン・ガッド)が良かったように思う。指揮は、24歳の若者、ロビン・ティチアーティ。オケは古楽器を使うエイジ・オブ・エンライトメン管弦楽団だが、やや大味なところもあった。