映画『靖国』(1)

charis2008-05-06

[映画] 李纓監督『靖国』 渋谷/シネ・アミューズ


(写真右はポスター。下は、現役最後の靖国刀の刀匠、刈谷直治)

李纓(Li Ying)監督の映画『靖国』を見た。警官の警備はあったが、表象芸術としての映画の特性を見事に生かした優れた作品だ。明治2年創立の靖国神社は、高橋哲哉氏の『靖国問題』が明快に解き明かしたように、「神道」という古い形式にも関わらず、その内実は、近代国家が戦争を遂行するためのイデオロギー装置であった。(高橋氏の『靖国問題』とそれへの宮崎哲弥氏の的外れな批判については、私はブログで計4回にわたって解説した。↓)
http://d.hatena.ne.jp/charis/20050421
http://d.hatena.ne.jp/charis/20050604


映画『靖国』は、近代国家日本のイデオロギー装置としての靖国を、記録映像のみを通して表現している。刀匠へのインタヴューで監督が質問する以外は、すべて外部の記録映像であり、俳優が演技する通常の映画ではない。中国人である監督の李纓は日本在住19年、この映画も、10年をかけて丹念に靖国神社の参拝光景を撮り続けた結果だ。私には、映画の全体を通じてきわめて印象的で衝撃的だったことが二つある。それは、(1)俳優の演技が皆無であるにもかかわらず、靖国神社が完全に”劇場空間化”していること、(2)靖国刀の刀匠である刈谷直治の、インタヴューにおける長い沈黙と照れ笑い、そしてその温和な表情と回答こそが、イデオロギー装置としての靖国を雄弁に語っていることである。


まず(1)の、靖国の劇場空間化あるいはイヴェント化から。靖国が大きな政治的争点となったのは、小泉元首相の参拝をきっかけとしているが、小泉政治がそうであったように、靖国を参拝あるいは抗議のために訪れる人々もまた、あたかも俳優のように劇場空間の人になってしまう。靖国を訪れる人々は、驚くほど多くのマスコミのカメラやマイクの中に置かれるのだ。そして、訪れる人々もまた、そうしたカメラの視線と、その光景が全国に報道されることを大いに意識し、期待もしている。そのことが映像からまざまざと伝わってくる。旧軍の軍服を着用し、大きな日章旗を掲げ、日本刀をさげて、軍隊式のラッパと行動で参拝する老人たちの集団には目を瞠らされる。おそらく街宣右翼ではなく、その痛々しいまでの真剣さは旧軍人であると思われる。そして、雨の中をただ一人、南方の兵装で日本刀を掲げて黙々と参拝する男性。


靖国に抗議する人々も負けてはいない。台湾の原住民が日本兵として徴兵されたことに抗議する、台湾の高砂族の女性。彼女の冬季の訪問は、神社側から冷たくあしらわれる。そして、祀られた名簿から父を削除してほしいと懇願する浄土真宗の僧侶。あるいは、境内で行われた右派の式典で抗議しようとして、袋叩きにされて血を流す青年。日本人だが、「とんでもねえ中国野郎」と追い回され、それ以上の衝突を避けるために警察官が彼をパトカーに押し込む。その一部始終を追う圧倒的な数のカメラ。彼の場合、たとえ殴られても、抗議という表現を行うことが、靖国に来る目的なのだ。「小泉参拝を支持します」という日本語プラカードと星条旗を持つアメリカ人も現れるが、日本人参拝者から、「その旗をおろせ、広島を忘れるんじゃねえぞ」と凄まれ、神社から追い出される。李纓監督がこれほど多様な参拝映像を撮ることができたのは、一般参拝者を含めてそこにいる人々がカメラの視線に慣れているからであろう。映画では、どの被写体の周囲にも、それを追う多数のカメラと、それを見世物のように見物している多数の人々が一緒に映っている。靖国はすでに、俳優無用の劇場空間と化しているのだ。


(2) 90歳の靖国刀の刀匠、刈谷直治を映画の一方の極に置いたことが、この映画を奥行きの深いものにしている。李纓監督の映画はどれも、老人の回顧と現実の光景とを組み合わせて作られているそうだが、靖国神社の「御神体」が日本刀であることに着目した彼の着眼は鋭い。映画は、靖国の狂騒光景と交互に、鍛冶場で黙々と刀鍛冶に打ち込む刈谷の映像が繰り返される。灼熱した鉄の塊が刀になってゆく光景は、きわめて美しく、感動的だ。日本刀は、すでに戦闘では無用のものであったが、軍人の象徴=誇りであるだけでなく、捕虜の処刑やいわゆる「百人斬り」など、戦争の残虐さの象徴として取りざたされ争点化されたところに、日本刀の置かれた悲しい歴史的な文脈がある。


インタビューで李纓監督のきつい質問に、長い沈黙で応える刀匠刈谷直治は、戦争と靖国と日本刀がたどった悲しい歴史と運命に耐えて、今日まで生きてきた。彼が誠実な人物で、靖国の本質もよく知り抜いていることが、映像から痛いほど伝わってくる。「日本刀は人を切れば刃こぼれするのではないか」という監督の、おそらくは百人斬りを意識した質問に、刈谷は、「そんなことはない」と刀の性能を擁護する。「戦場で日本刀が役立った例はあるのか」という質問には、「灼熱して柔らかくなった敵の機関銃をたたき切ったこともある」と答える。自己の日本刀に刀匠として限りない愛着と誇りを持っているのだ。しかし一方で彼は、監督の質問にどこまでも沈黙を守り、最後に照れ笑いをするシーンが幾つかある。この照れ笑いには、それ自身には罪のない日本刀という物体が置かれた大きな歴史的文脈への、刈谷の深い悲しみと諦念が読み取れて、それが我々の胸を打つ。首相の靖国参拝をどう思うかと問われて、刈谷はぼそっと答える。「小泉さんと(気持ちは)同じです。国のために死んだ人々を追悼し、二度と戦争をしないために、靖国に参拝するのです。戦争はいけません」と。90才の老人の温和な清々しい表情は、彼が心からそう思っていることを示している。


劇場空間化した靖国の光景と、静かな刀匠の鍛冶場光景からなるこの映画に、なぜ自民党の右派議員たちは短絡的に反発したのか、彼らは何を見落としているのか、それを次に考えてみたい。[続く]