映画『靖国』(2)

charis2008-05-08

[映画] 李纓監督『靖国』 渋谷/シネ・アミューズ


(写真右は、映画の映像より)


何よりもまず、この映画はユニークな衝撃力を持っている。靖国を、不可解で矛盾に満ちた場所として、誰の目にも分かるように視覚化したからだ。この映画の真価は、靖国を訪れる人々を至近距離で捉えた生々しい映像と、刀匠の穏やかな表情と長い沈黙という、まったく異なる二つの視点によって、靖国を相対化し、靖国を客観的に思考する道を開いたことにある。アップの映像に我々の目を釘付けにすることによって、我々の意識をかえって対象から自由にするというのが、すぐれた表象芸術としての映画の力である。


自民党右派の国会議員は、この映画がまだ一般に上映もされないうちに、文化庁の助成が不当だとして、試写をさせた。彼らが助成の不当性を言うためには、映画の内容の不当性が前提になる。内容が不当でなければ助成の不当性を主張できないからである。だが、映画内容の評価に関わる最終判断は、あくまで観客の手に委ねられるべきものである。また、個々の映画表現への評価は、見る人によって異なるのが自然であり、受容や評価の多様性をあらかじめ認めるところにしか、公的助成というプロセスは成り立たない。ある特定の人に気に入らないから助成はダメだというならば、表現それ自体が多面性をもつという、表現の根本的な美質や価値が否定される。上映前の国会議員の介入は、不当な政治的行為なのである。一般公開された後ならば、観客の一人として、彼らが「これは偏向している」「反日映画だ」等と批判することは、もちろん正当な批評行為であり、彼らはそうすべきであったのだ。


興味深いことに、この映画は、右翼の関係者を集めた試写会では賛否両論であったという。たとえば、右翼の論客である鈴木邦男氏(一水会・顧問)は、次のように、この映画を絶賛している(パンフより)。
靖国神社を通し、<日本>を考える。「戦争と平和」を考える。何も知らなかった自分が恥ずかしい。厳しいが、愛がある。これは「愛日映画」だ!


また保守系の評論家・上坂冬子氏は、この映画について、4月25日の産経新聞「正論」で、次のように述べている。
>・・・監督は「覚えていることだけでもいいから」と執拗(しつよう)に刀匠に問いかけたが、刀匠は淡々として最後まで見事に無言を貫いた。・・・これでいい、長々とカメラを向けられながら一言も口にしなかった刀匠を映し出しただけでも、この映画は上出来だと私は好感を持った。


両氏とも、この映画の特質をよく捉えていると思う。対象が、これまで自分が考えていたのとは違う側面をもつことに気づかされる積極的な体験としてこの映画を受け止めている。そして、私のような左派の人間もまた同様な経験をするところに、この映画の優れた表現性がある。国会議員たちには、自己の中に新しい次元を開示してくれるものとしての映像表現への理解が欠けている。靖国は、近代国家が自国の兵士を宗教的な装いをもって鎮魂するという、それ自体が矛盾にみちた存在である。だからこそ我々は、他の何ものにもまして、靖国を多面的な視点から眺めなければならないのに、彼らはそのことに盲目であった。そうした視野の狭い政治家が、靖国を"無垢で聖なる場所"と単純に思い込むことが、どんなに危険なことであるかは、日本の近代の歴史が、そしてこの映画の映像が雄弁に物語っている。


最後に、批評の中から、次の二つを引用しておこう(パンフより)。
>・・・けっして尻込みすることなく、観客に危険を体感させるカメラワークが見事。映像も息をのむような完成度。そして、同じくらい衝撃的なのが、おそらく普段は理性的なのであろう人々が、感情をコントロールできなくなっている様子である。(ジョン・アンダーソン/ヴァラエティより)
>全篇に挿入される刀匠の刀作りの映像は、一途に技に打ち込む職人への敬意を誘発する。しかし、刀の役割に関する質問に対する彼の沈黙と、謎めいた笑みこそが、この映画のもっとの雄弁な部分である。(マギー・リー/ハリウッド・レポーターより)


PS:嬉しいことに、今日10日から、東京での『靖国』上映映画館が増えました。
東京 渋谷シネ・アミューズ:5月10日〜5月16日
シネカノン有楽町1丁目:5月10日〜(※レイトショー)
シネマアンジェリカ:5月17日〜5月30日
渋谷シネ・アミューズ(英語字幕付):5月17日〜5月23日

全国の情報は以下で、↓
http://www.yasukuni-movie.com/contents/theater.html