[読書] 岩波講座哲学・第5巻『心/脳の哲学』 08年5月刊
(写真は、デカルト生誕400年を記念したアルバニアの切手。デカルトがやや当世オヤジ風?)
岩波講座哲学(全15巻)の刊行が始まり、最初に第5巻『心/脳の哲学』が配本された。私もそこに寄稿しているのだが、他の方々の論考を事前に読む機会はなかったので、昨日、全体を通読し終わり、色々と学ぶことが多かった。心身問題の歴史を扱った第Ⅰ部が、1「魂の発見」、2「魂から心へ」、3「心から脳へ」、4「脳から身体・環境へ」という4章立てになっているのが面白い。つまり、古代ギリシアにおいて世界の中に「魂」なるものが発見され、それがデカルトにおいて「心」になり、20世紀には「脳」になるという変遷を経て、再び環境=世界に戻るという展開なのだ。1「魂の発見」(高橋久一郎氏)と、2「魂から心へ」(私の執筆)だけが昔の時代を扱い、それ以外は本巻の論考はすべて現代の議論を扱っている。哲学の問題とされてきた心身問題が、脳科学、進化心理学、エコロジカル・アプローチなど諸科学の成果に依拠しながら論じられていることに、私が学生だった頃と隔世の感を感じる。どの論文も、それぞれ異なった諸科学や哲学の立場を踏まえているので、私には各論考の視点やアプローチの違いが興味深かった。多彩な内容をこのブログで紹介することはできないが、論考の中では、信原幸弘氏の「言語による思考の臨界」が特に面白かったので、少しだけ感想を記してみたい。
信原氏は、思考をたんに言語の営みとしてだけ捉えるのではなく、記憶やイメージと協働しながら行われるものと考える。そこで重要になるのは、イメージの本性である。我々は眼前に存在しないバナナを思い浮かべることができるが、そこに思い浮かべられているバナナは、バナナの絵とは違う。想像されたバナナは、バナナの絵のようなものだと思われがちだが、そうではない。バナナの絵は、実物のバナナを表象する。つまり、バナナの絵は「表象するもの」である。それに対して、想像されたバナナは、「表象するもの」ではなく「表象されたもの」である。では、想像されたバナナを「表象するもの」は何かといえば、それは脳状態である。我々が夢を見るとき、夢の光景を表象するものは脳状態であるのと同様に、眼前に知覚されていないバナナが想像されるとき、それを「表象するもの」は私の脳状態なのである。(p144)
>バナナの絵はバナナを表象するものであるが、バナナのイメージはそうではなく、表象されるものである。バナナを想像するとき、脳がある状態になり、その脳の状態がバナナを想像的に表象するのである。それは、[実物の]バナナを知覚するとき、脳がある状態になり、その脳の状態がバナナを知覚的に表象するのと同様である。バナナのイメージを、バナナを表象するものと考えるのは、バナナのイメージとバナナの絵のイメージを混同するものである。(p144)
では、このように考えたとき、思考における言語はどう捉えられるのだろうか。我々は普通、声に出さないで、心の中で言葉をつぶやきながら思考する。つまり「内語」が、思考における言語である。
>イメージは想像経験において想像的に表象されるものである。そうだとすれば、内語も本来、イメージに数えられるべきであろう。頭の中で「本棚を右に移そう」とつぶやくことは「ホンダナヲミギニウツソウ」という音声イメージを脳裏に浮かべることである。それは、バナナの絵のイメージと同じく、表象であるもののイメージである。(p145)
通常の言語哲学が内語などにあまり関心を持たないのに対して、信原氏が内語に着目するのは、注目に値する。それは、思考を言語とイメージの協働作業と捉えるからであり、その協働作業の内実を明らかにするには、イメージと言語を「表象」という共通の視点から捉えることが必要だからである。「表象するものをイメージする」過程として内語を捉えることによって、言語も「表象」機能から捉えられ、さらには、イメージとの関係も明らかにできるかもしれない。言語における「表象するもの」は、「ホンダナヲミギニウツソウ」という音声イメージだから、内語は、バナナを想像することよりも、「バナナの絵」を想像することに似ているというのは、興味深い見解だ。ただ、そうすると、思考において、絵ではなくバナナそのものを想像することは、どのような位置を占めるのだろうか。バナナのイメージを「表象するもの」は、本来は脳状態であるが、夢や知覚の場合、その脳状態を作るのは自分の能動的な意思ではない。それに対してバナナを想像するのは、意識して想像する場合もあるし、別のことを考えているうちに、それとの連関でバナナが想像される場合もあり、要するに何らかの能動的な思考活動の一環としてバナナが想像される。その場合、どこかで我々は「バナナ」と内語することによって、バナナのイメージを呼び寄せているのだとしたら、それは、「バナナ」という音声イメージが「バナナの絵」のように「表象するもの」としての役割を果たすからかもしれない。
言語には主語・述語あるいは否定などの構文論的構造があるのに対して、イメージにはそれがないという重要な区別を信原氏はしているが(p147f)、思考においてイメージと言語がどのように相互に喚起し合って協働するのかについては、まだ示唆的にしか述べられていない。
>イメージよる思考には、[否定の構造はないが]連想が可能である。われわれは、イヌが走るというイメージから、イヌが棒に当たるというイメージを連想が可能である。・・・一方のイメージから他方のイメージを連想によって導き出すことができる。・・・[また、イメージと言語の協働について言えば]、イメージが言葉を喚起し、その言葉が別の言葉やさらなるイメージを喚起して、思考が展開される。もしイメージを思い浮かべることがなければ、われわれはそのように思考を展開させることができなかったであろう。(p148)
思考は言語だけのものではなく、イメージが必要であるという指摘は重要だ。そして、言語とイメージの協働のあり方を捉えるのが、「表象」という視点である。ただし、信原氏の考察はまだ「連想」や「喚起」といった示唆的なものにとどまっており、ここが深く展開されたら非常に興味深いものになると思われるので、今後に期待したい。もう一点、本稿では、「脳状態が構文論的構造をもつかどうか」あるいは「脳状態が絵画的かどうか」は、まだ脳科学の解明が進んでいないので分からない、と述べられている(p146) 。私はこの分野に不案内なので、「脳状態が構文論的あるいは絵画的」というのはどのような事態を意味するのか、少し説明があればなおよかったと思う。ともあれ、信原氏の論文はとても刺激的なものであった。