ヘブライ語上演『アンティゴネ』

charis2008-06-14

[演劇] ソフォクレスアンティゴネ』 ハナン・スニル演出 静岡芸術劇場

(写真右は、アンティゴネ(右)と妹のイスメネ。下は、コロスを構成する4人の長老と、預言者テイレシアス(右手前)。風雪を感じさせる老俳優たちが素晴らしい。彼らが胸に付けているのは、第一次大戦古参兵勲章。その下の写真は、花嫁衣裳のアンティゴネが連れ去られるところ。いつも彼女は、語るというよりは叫ぶ。)


イスラエルのハビマ国立劇場とテルアビブ市立カメリ劇場の製作。現代ヘブライ語古代ギリシア悲劇を上演するという珍しい舞台。旧約聖書の言葉ヘブライ語は、すでに紀元前後から日常語としては次第に使われなくなったと言われる。ユダヤの儀式や行事などは別として、2000年近く死語のような状態にあったヘブライ語は20世紀初頭から、ユダヤ人のパレスチナ移住とともに口語の日常言語として復活した。このような稀有の言語ヘブライ語に『アンティゴネ』が翻訳・上演されたからであろうか、本公演は、現代のユダヤ人による新解釈によって、きわめて新鮮でテンションの高い舞台になっている。


ソフォクレスアンティゴネ』は、西洋文学にもっとも大きな影響を与えた作品の一つである。「イエスよりも崇高」とアンティゴネを絶賛したヘーゲル、「原作の欠陥を翻訳で改善してみせる」と豪語してドイツ語に訳したヘルダーリン、そして、『アンティゴネ』のリメイク版は、ラシーヌコクトー、アヌイ、ブレヒトなど多数にのぼる。ヘーゲルは『アンティゴネ』に、神の掟と国家の掟の対立を読み取り、ラカンは、アンティゴネの兄ポリュネイケスへの愛を精神分析的に考察した。ジュディス・バトラーは、ヘーゲルラカンが、アンティゴネとポリュネイケスの近親相姦の可能性を除外したことを批判するなど、さまざまに読み解かれる作品なのだ。『アンティゴネ』には、きわめて現代的なテーマがたくさん含意されている。たとえば、敵兵を決して慰霊しないという国家の論理は、靖国神社のそれであるし、愚かな王クレオンは、「女に頭を下げてたまるか」「女の指図など受けるものか」「女が男のように振舞うのはゆるせん」と、滑稽なまでに男性優位にこだわる。アンティゴネジェンダー問題をも提起しているのだ。


だが、今回のハナン・スニル演出の最大の特徴は、コロスを劇の中心に据えたことである。原作においても、コロスはとても気にかかる存在である。その理由は、あるときはアンティゴネの立場に寄り添い、しかし他方ではクレオンにも媚びるというように、コロスの姿勢そのものが揺れ動くからだ。ポリュネイケスに土がかけられたことを聞いて、「これは神の仕業ではないか」と述べてクレオンの怒りを買うかとおもえば、アンティゴネの頑なさ・傲慢さを非難して、「女の身なのに立派なことだ」と皮肉る。それを聞いてアンティゴネは、「ああ、そうして私をあざ笑うのか」と絶望し、テーバイのすべての人間から自分は見捨てられたと嘆く。しかしまた、テイレシアスの予言に動揺するクレオンに対して、ただちにポリュネイケス埋葬とアンティゴネ救出を訴えるのもコロスなのである。


スニル演出は、原作のコロスが決して一枚岩ではないことに注目して、コロスの多義性を前景に押し出す。このような多義的なコロスこそ、アンティゴネクレオンの原理主義的な対立を緩和し、それを調停しようとする希望なのだ。アンティゴネクレオンという二項対立ばかりが目立つ中に、コロスという第三項の存在の重要性を強調することは、『アンティゴネ』上演史を画する斬新な解釈であると思う。そしてそれは、パレスチナ問題という原理主義的対立に悩まされる現代イスラエルだからこそ可能になったものであろう。テルアビブ市立カメリ劇場は、イスラエル人とアラブ人の平和な共同生活をめざすプロジェクトに取り組んでいるそうだが、この『アンティゴネ』も同じ志向を感じさせる。コロスを中心に据えるために、本作では、コロスにとても工夫がこらされている。同時に唱和するのではなく、4人の長老が交互に語り、まるで互いに議論しているかのようでもある。そして現代的なリズム感にあふれる音楽を付けて、若い兵士もまじって一緒に踊る。ひょっとして、若い兵士の軍服はイスラエル兵のものではないか? 下の写真は、クレオンがアンティゴネの救出に向かう間の時間を埋める、コロスの第4合唱であるが、それまでにない緊迫した時間が流れていることを象徴するためであろうか、動物の仮面を付けて狂ったようにバッコスの踊りを踊るコロスたちは、圧倒的な印象を与える。この踊りは、舞台に置かれた大きな長い机の上で踊っているのだが、舞台空間の見事な使い方は、『アンティゴネ』をスタイリッシュな現代演劇として蘇らせるのに成功した。