「出生率」を考える(4)

charis2008-08-03

[読書] 河野稠果『人口学への招待』(中公新書 2007年8月)


(写真は、Henry Heringの「走るダイアナ」。ギリシア神話のアルテミスは、ローマでは「ダイアナ」と呼ばれた。こちらもアスリート美少女で、母性的ではない。)


今日は、合計特殊出生率と、女性の未婚率が15年遅れで男性の未婚率に追いつくというデータについて考えてみたい。


河野氏は、合計特殊出生率について次のように述べている。
>[合計特殊出生率は] ちょうど大木の幹を真横に切断してその年輪を見るように、人口の流れをある時点で切断しその横断面に現れた年齢別出生率の合計を示すものである。(p77)
>しかし、このようにして得た出生率は、見かけの数値である欠点がある。異なったそれぞれのコーホート[=ある年に生まれた人口集団]の15歳から49歳までの年齢別出生率を、あたかもある特定のコーホートが順次経験したかのように見せているからである。(p82)


ここには、「ある時点において、女性が一生に産む子供の数を示す」という「出生率」のもつ本来的な「矛盾」が語られている。「出生率」は毎年、鳴り物入りで公式発表され、「現時点における日本の出生力」として語られる。合計特殊出生率が、それ自体として語っていることは(年齢構成差の修正は措くとして)、今年、15歳の女性はこれだけ出産、16歳の女性はこれだけ出産、・・・30歳の女性は・・・49歳の女性はこれだけ出産というように、35通りの年齢のそれぞれの女性の出産数を集計したものである。35通りの年齢の女性はみな別人である。別人なのだから、今年15歳の女性が30歳になったときに、今年30歳の女性と同じ割合で出産することはないだろうし、同じことがすべての年齢について言える。つまり、合計特殊出生率の時間は瞬間スナップのように止まっており、「一人の女性の一生」のような数十年の時間の幅を許容しないのである。


たしかにこれは、「今年、日本の女性たちはこのように子供を産みました」という事実報告ではあるが、「一人の女性が一生に産む子供の数」ではない。にもかかわらず、後者のような「読み替え」が必ず行われるのは、「人口の置き換え水準」(p76)が最初から意識されているからである。つまり、人口を同一に保つためには、女性は一人当たり2.07人の子供を産む必要があり(死亡率があるので、2人では足りない)、それより少なければ、長期的には人口が減る。だから、合計特殊出生率が「一人の女性が一生に産む子供の数」に読み替えられるとき、それは、人口の置き換え水準である2.07人という数値との比較が意識されることになる。厳密には、「一人の女性が一生に産む子供の数」を、ある特定の時点で言うことはできないのだが、「一人の女性が一生に産む子供の数」に理論的に近似する数値をなんとか考案しようとするのが、人口学なのである。


河野氏は、合計特殊出生率の欠陥として、(1)結婚がまったく考慮されていない、(2)単年度のものなので、景気変動や日本の「丙午」のような社会的な偶然因子の影響を受けやすいことをあげている(p72)。丙午や不景気などは、すべての世代の女性が「産み控え」を行うので、数値は大きく下がる。合計特殊出生率は、あくまで単年度の事実を反映するものである以上、変動幅が大きく、多額の出産奨励金のような社会政策によっても、短期的に大きく数値が上がることがありうる。しかしそれは、「女性が一生に産む子供の数」に理念的に「読み替える」という本来の意図からすれば、そうした撹乱要因に弱いことは、合計特殊出生率の欠陥なのである。


河野氏があげる(1)の要因、すなわち、結婚が考慮されていないことは、別の面で「合計特殊出生率」のもつ本質的な問題である。前に見たように、完結出生児数は、30年以上にわたって2人以上でほとんど変わっていない。つまり、結婚した女性が一生に産む子供の数は、ほとんど変わっていない。にもかかわらず合計特殊出生率だけが大幅に低下しているのだから、その原因は、晩婚化と未婚化にある。河野氏の本は、第7章が「結婚の人口学――非婚・晩婚という日本的危機」と題されており、晩婚・非婚の傾向に対する危機感が表明されている。氏は、人口減少は非常によくないと考えておられるようである。そして、日本のマスメディアは出産を讃える啓蒙活動が不足しているとして、次のように述べられる。
>子どもは美しく途方もなく可愛い、子どもは人生最大の宝であり、子どもを産み育てることは人生に至福の充実感を与える、またそれが人間最高の自己実現そのものである、という強いメッセージの発信はまだ十分に行われていないように思う。これを期待したい。(p261)


だが、人口減少をどう考えるかは、慎重な検討が必要だろう。開発途上国が経済的に成長し、地球上の67億人の人間がより豊かな暮らしを求めてエネルギー消費を増やしつつあることを考えると、環境面からのキャパシティという点で、地球規模の人口増には限界があるとも考えられる。一人当たりのエネルギー消費の多い先進国において少子化が進むのは、文明の成熟という点からみても、むしろ理に適ったことではないだろうか。男女ともに未婚率が大幅に上昇したという事実は、従来ならば出産や子育てに費やされたエネルギーが別のことに向けられていることを意味している。このことを前向きに受け止めるべきだろう。重要なことは、一人ひとりの個人が幸福に生きることであり、ある特定の国が人口を維持することではない。


河野氏は、出生率予測は非常に難しく、「時代の価値観によって大きく変わる結婚行動や出産行動を100%正確に予想することはできない」(p227)と言われる。合計特殊出生率は分母の女性の結婚・非婚の区別をしないので、婚姻率しだいで出生数は大きく変わる。だから、婚姻率の予測ができない限り、出生率の予測もできない。国立社会保障・人口問題研究所の出生率予想が大きくはずれ続けてきたことも周知の事実である。しかし婚姻率もまた、さまざまな要因が輻輳したマクロの現象であるから、一定の傾向は予測できるのではないだろうか。とすれば、それを変数の一つに組み込んだ出生率の予測も可能になるかもしれない。未婚率の5年ごとの変化のグラフを見てみよう。

このグラフを見ると、女性の未婚率は15年の差をもって男性を追いかけていることが分かる。たとえば茶色の実線は、2005年の男性未婚率であるが、2005年の女性未婚率である茶色の破線は、15年前の男性未婚率である黄色の実線(1990年)とぴったり重なっている。そして、2000年の女性未婚率(赤い破線)は、1985年の男性未婚率(緑の実線)と重なり、1995年の女性未婚率(オレンジ色の破線)は、1980年の男性未婚率(空色の実線)と重なっている。そして1990年の女性未婚率(黄色の破線)は、1975年の男性未婚率(紺色の実線)とぴったり重なる。つまり、このグラフから読み取れる限り、女性未婚率の4本の曲線はそれぞれ15年前の男性未婚率の曲線とぴったり重なる。こうしてみると、婚姻率の予測を変数に組み込んだ出生率の予測も不可能ではないように思われる。下記のグラフで比べても、左図と右図を対応させると、30〜34歳では、女性未婚率は男性未婚率と15年の差で数字が対応している。50歳では追いつき方は15年より早い。25〜29歳では、20年の差で数字が追いついている。