[オペラ] ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』 飯守泰次郎指揮 東京シティフィル ティアラ江東
(写真右はポスター、左はパリオペラ座の『トリスタン』。今年7月、東京でも上演。)
自分の原稿締切と重なり、パリオペラ座公演を観られなかったので、東京シティフィルの公演を観た。「オーケストラル・オペラ」形式(オケが舞台に上がる)なので、本物のオペラとは少し違うが、『トリスタンとイゾルデ』はワーグナー作品中もっとも動きが少なく、歌手はほとんど棒立ちで歌うから、この形式には向いている。オケの後ろの少し高い小舞台で歌手が歌い、後方の壁と天井全体にプロジェクターで映像が映される。パリオペラ座版も映像を駆使しているようなので、動きのほとんどないこの作品には、映像が有効なのかもしれない。実際、2時〜7時(含休憩)という長時間、演劇的要素がほとんどないこの作品をじっと見続けるのは、よほどのワーグナーファンでもない限り、かなり努力を要することである。
今回の公演も、中高年男性を中心としたワーグナーファンが多いようだ。幕終了時の熱狂的な「ブラヴォー!」や拍手も普通のオペラとは雰囲気が違う。ロビーには「日本ワーグナー協会」入会受付のデスクが出ており、ちらしを見ると、会員の特典に「バイロイト音楽祭入場券等の配布。(準会員についてはお問い合わせください。)」とある。準会員ではまだダメなようだし、まして入会していない部外者がバイロイト音楽祭を拝聴するなどというのは、恐れ多いことなのかもしれない。ワーグナーが専用のバイロイト祝祭歌劇場を持ち、閉鎖的な空間の中で選り抜きの崇拝者たちの為だけに演奏するという彼の高邁な理想は、今回のティアラ江東(江東区公会堂)というマイナーな空間にも、いく分かは受け継がれているように見受けられた。
それはともかく、たまたま前の晩に(20日夜)、プラハ室内歌劇場の『フィガロの結婚』(東京文化会館)を見たので、エロスを主題にしたオペラについて、色々と考えさせられた。『トリスタン』はエロスを主題にしているが、娯楽性がまったくない奇妙な作品だ。実質4時間の上演中、観客で笑う人は一人もいないし、そもそも笑ったりおかしかったりする箇所は一つもない。厳粛な面持ちでまんじりともせず舞台を見つめるか、そうでなければウトウト居眠りをするか、どちらかしかない。やはりエロスを主題にしているモーツァルトの『フィガロ』『ジョバンニ』『コシ』などが、あの明るさと軽さと、天国的な浄化作用を感じさせるのに対して、ワーグナーの『トリスタン』は途方もなく暗い。第二幕のトリスタンとイゾルデの愛の二重唱「ああ、降り来よ、愛の夜よ」はたしかに美しい。しかし今回の上演では、第一幕の最後がとても印象的だった。死の薬を飲んだつもりのトリスタンとイゾルデが、実はそれは媚薬の「愛の酒」で、相思相愛のまま生きてしまったことが分かったときの衝撃。イゾルデは「私は生きなければならないのか? Muss ich leben?」と叫んで失神し、トリスタンは、「おお、たくらみの喜びよ、欺瞞の生んだ幸福よ!」と嘆く。エロスは喜びであるよりは、むしろ苦しみなのだ。
エロスが我々にとってきわめて重要なものであるのは、それが生殖を動機づけるからであり、この世に我々を存在させるための根本の力だからだ。つまり、エロスは"地上的"なもので、天国的に浄化されにくい感情でもある。エロスは欲望の感情であると同時に、表情や振る舞い、行為の中に発現するが、ワーグナーは、もっぱらエロスの感情表現に重きをおいているように見える。『トリスタン』では、「トリスタン動機」で始まる「無限旋律」、つまり半音階が複雑に切れ目なく繋がる音楽が、連綿と奏でつづけられる。調性も分からないし、口ずさめるようなメロディもない。モーツァルトのように、音楽が、アリアや重唱、レチタティーボなどに分節してもいない。示導動機はたしかに印象的だが、音楽は全体をじわーっと包み込むように響いて、舞台上の人物の個々の行為には対応していない。これは、トリスタンやイゾルデの内面の感情の起伏や高揚を表現するには適しているが、実際に男女がエロスを感じる振る舞いや行為という場面を飛び越して、二人の感情と聴衆の感情をいきなり一体化させるやり方でもある。つまり、オペラの全景を音楽が支配し、演劇的要素はほとんど消失している。
『フィガロ』は、ボーマルシェの類まれな傑作演劇をもとに作られており、人間の生き生きとした行為に音楽が多様に対応しているので、エロスには跳ねるような"軽み"があった。しかし『トリスタン』では、エロスは音楽によって、感情的なものとして極限まで普遍化されているので、空間的な動きが少ない。そもそもワーグナーの作品は、特別の声量を要するので、普通の歌手にはなかなか歌えない。ソプラノにも、どっしりとした体格が必要であり、細身の美女が軽やかに動くような場面はあまりない。つまり、全体が音楽に特化しているために、表情や振る舞いといった肉体の運動性が希薄なのだ。その結果、エロスはどこまでも地上的な姿で我々の前にとどまり続ける。それが大きな衝撃を与えるのが『トリスタン』なのだと思う。神話にこだわったワーグナーの英雄や王妃よりも、モーツァルトのスザンナやツェルリーナのような女中や農家の娘の方に、何かエロスの"神的な"昇華が感じられるのだが、これは私の偏見だろうか。
今日の舞台では、イゾルデ(緑川まり)の歌唱には、かなりプロンプターの声が聞こえていた。プログラムにある副指揮者の項を見ると、「副指揮者、プロンプター」となっており、紹介文には「特にプロンプターとしての手腕は優れており、国内外の歌手から絶大な信頼を寄せられている」とある。だが、プロンプターが活躍するということは、歌手が台詞を覚えていないということだから、こうも堂々と書かれているのは、どうなのだろうか。