スパイアーズ『エミリ・ディキンスン家のネズミ』

charis2008-11-07

[読書] エリザベス・スパイアーズ『エミリ・ディキンスン家のネズミ』(長田弘訳、みすず書房、07年9月)

(写真右は、ディキンソンの、残っているたった一枚の写真。下は彼女の生家)

勤務先のディキンソン専攻の大学院生に薦められて読んだ。著者はアメリカのディキンソン研究者で、本書は、エミリ・ディキンソンを紹介した一種のメルヒェン。ほとんど引き篭もりの生涯を送ったエミリの部屋に、一匹の白ネズミが住みつき、彼女と心を通わせるという物語。本書を読んで私はまっさきにデリダの「引用」概念を思い出した。どんな言葉も、聞き手の一人一人違うコンテクストの中に引き込まれて再生されるのだから、言葉はそのつど新しい意味を担って創造されるというのがデリダの「引用」である。私は本書に「引用」されているディキンソン詩をいくつも知っていたが、エミリと白ネズミの交歓の物語の中に置かれたそれぞれの詩は、私の知らなかった新しい輝きを帯びていた。ディキンソンの詩はとても短い。だから、一人一人の心の中で「引用」されるたびに、新たな相貌を見せる。


だが、それよりも何よりも、かにも かくにも、長田弘の訳が素晴らしい!! 私はこのブログを始めたとき、一種の開始宣言のつもりで、ディキンソン詩を自分で訳して載せた。↓
http://d.hatena.ne.jp/charis/20040920
だが、長田弘の訳は私のものとは天と地ほども違う、心のこもったものだ。まるでそこにいるエミリが私たち一人一人に語りかけているようだ。幾つか引用しよう。番号はジョンソン版のそれ。


ずっとここで暮らせば、そのうちに
あなたも、きっと気づくわ。
ことば ―― あなたがよく知っていると思っている、
大きなことば、小さなことば、短いことば、
長いことば ―― は、どんなかたちの、
どんな大きさのことばでも、
あなたが知っているより
たくさんの、意味と、それ以上に
たくさんの、驚きをもっているんだって!


[註: これは、発表された詩ではなく、エミリのメモに残された覚書。初めて彼女の部屋を訪れた白ネズミが、冒頭を読んで、これは自分に向けられたメッセージだと解する。本書p8。やはり言葉について謳ったシェイクスピアソネットの55番や81番と比べても、劣らないでしょう。]



わたしは誰でもない! ―― あなたは誰?
あなたも ―― 誰でもない ―― のね?
二人は、おなじね! でも、話しかけないで!
きっと追い出されるから ―― わかっているでしょ?

つまらないことよ ―― 誰か ―― であることなんて!
蛙みたいに ―― おおっぴらに ――
ひっきりなしに ―― 相手の名を呼びつづけたって
耳を傾けてくれるのは ―― 泥の沼だけ!


[No.288、本書p20.白ネズミの書いた詩を読んだエミリの初めての応答。ネズミがいることが家族に知られたら追い出されるから、お互いに黙っていよう、と。]



花を買いたいといわれても、
花を売るなんてできません。
じゃ、貸してといわれるなら、
お貸しします。


村の家の軒下で、ラッパズイセンが
 帽子をぬぎ、
ミツバチたちが、じぶんたちの
白ワインや、シェリー酒をもとめて、
クローバー畑に集まってくるまで、


そうね、それまでなら、お貸しします。
でも、それ以上は、一時間だってだめ!


[No.134 本書p32. 白ネズミと一緒に庭を散歩するエミリが、花を摘み取って香りを深く吸い込んで一気にこれを書いた。]



手紙は地上のよろこび ――
天上の神々は手紙を撥ねつける ――


[No.1639 本書p74. 引き篭もりのエミリはもっぱら手紙で友人と交流した。彼女の詩は手紙に添えられたものも多い。プロテスタント福音主義の支配する環境の中で、信仰告白を拒否して生きた彼女らしい矜持の詩。]