安部公房『友達』

charis2008-11-21

[演劇] 安部公房作/岡田利規演出『友達』 三軒茶屋・シアタートラム


(写真右は練習風景、下は俳優たち。なかなかの豪華陣)

1967年作の戯曲を、劇団チェルフィッチュを主宰する若手の劇作家、岡田利規が演出。戯曲を読んだときは、こんなつまらない作品がなぜ安部公房の傑作と呼ばれているのだろうと不思議だったが、実際の舞台にはそれなりの面白さはあった。物語は、一人暮らしの若い男のアパートに、見知らぬ9人の家族が勝手に上がりこみ、そのまま居ついてしまう。男は抗議するが、家族たちは、「一人ぼっちは、いけないわ。人間にとって、一番不幸なことよ」(次女)、「孤独は毒ね」(母)、「友達として見捨てておけない」(父)、「だって隣人愛の理想でしょう? 俺のものはお前のもの、お前のものは俺のもの・・」(長男)などと、はぐらかしながら、男を追い詰める。男は警官を呼んだが、警官は、被害や暴力の「証拠」がないからダメだといって、取り合わない。ついに、男は婚約者も失い、毒の入った牛乳を飲まされて死ぬ。


押し付けがましい「世間」が、孤独に生きたい人間を殺してしまうという、「世間」や「隣人愛」の暴力性を告発するのが、この作品の主題なのであろう。それが一種の不条理劇として構成され、会話の奇妙なズレは、たしかに面白い。だが、全体として、どうにもしっくりこない違和感が残る。科白の一つ一つにリアリティが感じられないのだ。カフカベケットがなければ、この作品は生まれなかっただろう。一人の男が、ありえない不条理な話に巻き込まれて死んでゆくという展開は、カフカの『審判』によく似ている。1960年代の日本では、まだ不条理劇がとても新鮮に感じられ、カフカベケットを模倣した作品が作られたのだろう。そこには、それなりの「前衛性」が感じられたのかもしれない。たとえば、別役実『マッチ売りの少女』(1963年)も、ベケットを感じさせる作風だった。しかし、カフカベケットが、現在の我々にとっても新鮮で面白いのに対して、安部の『友達』はなぜかとても陳腐にしか感じられない。二番せんじということもあるだろうが、孤独vsべったりした世間という二項対立が図式的すぎて、面白みに欠ける。つまり、頭だけで観念的に作られた作品なのだ。別役の『マッチ売りの少女』は、ベケット的ではあったが、ずっと見応えがあった。安部の『友達』は戯曲として、本質的な欠陥があるのではないだろうか。類型的な発想の結論が先にあって、科白を通じてそれがすぐに見えてしまうからだ。


そのような戯曲であるにもかかわらず、しかし、これだけの舞台を作り出せたのは、演出と役者の健闘の賜物だろう。身体が、あるときには止まるかのようにゆっくりと動き、あるときには、柔軟体操のように床を這う。この独特のパフォーマンスは、男が、ソフトな暴力によって真綿で絞められるように弱っていく過程を見事に表している。9人の家族が、言葉で男に「からむ」だけでなく、それぞれの身体もまた「からむ」のだ。一人の人物にスポットライトが当たると、服の色彩が浮かび上がるという照明も巧みだ。しかし、それでも前半はよかったが、後半は退屈してしまった。科白の一つ一つが何ともいえず陳腐で冗長に感じられる。これは、原作の賞味期限がすでに切れているからだろう。演出と役者はよくぞ頑張った。