ブレヒト版『アンティゴネ』

charis2009-02-13

[演劇] ブレヒト版『アンティゴネ』 東京演劇アンサンブル公演 俳優座劇場


(写真右はポスター。写真下は、左から順に、1948年ブレヒト演出による初演(スイス)、1992年ストローブ=ユイエ演出によるシチリア島での上演、2007年セルビアベオグラード演劇祭の上演。)

ブレヒトが、アメリカ亡命からドイツに帰る前のスイス滞在中に書いた作品。ソフォクレス原作をヘルダーリンが独訳したものを底本に使ったが、話も科白もかなり違う。ブレヒト版では、最初に「序景」の場が加わり、場面は1945年4月ベルリン、ドイツ降伏の直前。ポリュネイケスは戦場から脱走した罪で死刑にされ、市街に吊るされている。それを嘆くアンティゴネとイスメネ姉妹の所へ、ナチの親衛隊員が捜索に来る。これだけの「序景」だが、今回の上演ではカットされたので、ブレヒト版の特徴である戦争批判のコンテクストが分かりにくくなっている。


ソフォクレス原作『アンティゴネ』は、ラシーヌコクトー、アヌイ、ブレヒトなどがリメイク版を書いており、ヘーゲルキルケゴールジョージ・エリオットラカン、ジュディス=バトラーなどが熱っぽく論じていることからも分かるように、作家の創作欲を激しくそそる不思議な作品だ。リメイク版はそれぞれ特徴があるのだが、ブレヒト版は、クレオンの遂行する「戦争の侵略性」を追及することに焦点がある。クレオンにはヒトラーの影があり、テーバイに迫るアルゴスの軍勢は、ベルリンに迫るソ連軍である。長老たちからなるコロスも、ナチスを支える「体制」であると同時に、ヒトラーの戦争に失望し批判に転じるという二面性を持っている。ソフォクレス原作におけるコロスの「日和見主義」が、ナチ体制の翼賛的性格とうまく重なっている。クレオン最後の科白「これでテーベも滅亡だ、滅びればいい、余もろとも破滅して、それで終わり」も、ヒトラー自殺の「無責任性」を示唆したものだろう。


アンティゴネクレオンの対決も、兄ポリュネイケスの埋葬よりはむしろ、戦争そのものを巡っている。たとえば、クレオン「国が戦争しているのだぞ」、アンティゴネ「あなたの戦争よ」、ク「いや祖国の戦争だ」、ア「外国を侵略する戦争よ」・・・ク「本音を吐きおったぞ、この女の求めているのはテーベの国内の分裂なのだ」、ア「統一を口にするあなたこそ争いを生きる糧にしている」、ク「ではまず国内の争いに片をつけてからアルゴスの戦いを行うぞ」、ア「そうでしょうとも。他国に暴力を行使する必要があるときは、当然自国にも暴力をふるう必要があるでしょう」。つまり、他国に戦争をしかける国王は、同時に自国民にも暴力をふるっているのであり、このような視点から、ブレヒトソフォクレスアンティゴネ』を再解釈・再構成した。たとえば、クレオンの息子ハイモンは、「あなたの名は国民の恐怖になっています」「この国中に不満が満ち満ちていることを御明察ください」と、父の戦争遂行のファッショ的体制を批判する。また、長老からなるコロスは、クレオンの「戦いは勝っている」といういつも同じ「大本営発表」的な情報操作に疑義を呈して、クレオン批判に転じる。テーべの守護神バッカスを讃える踊りは、官製の「戦勝祝い」に興じるドイツ国民というように、ソフォクレスの『アンティゴネ』は、ヒトラーの戦争とオーバーラップする。いや、ヒトラーだけではない。トンキン湾事件イラクの「大量破壊兵器」など、戦争の口実をでっちあげる虚偽の情報操作は、現代のブッシュまで見事に共通する。


このようにブレヒト版は、『アンティゴネ』の戦争に焦点を絞ったリメイクとして、優れた作品である。とはいえ、ヒトラーの戦争を体験したドイツ国民の"痛み"という切実なコンテクストを抜きには、細部のリアリティが観客に伝わりにくい。それは、アヌイの『アンティゴーヌ』の分かりやすさとは対照的である。44年のドイツ占領下に初演されたアヌイ版では、間違った支配には死をかけても「ノン」と言い、決して「ウィ」と言わないアンティゴネの姿が前景に押し出され、その強固な"レジスタンスの意志"にフランス国民は自らの姿を重ね合わせて涙した。しかし侵略戦争の"加害者の側"に置かれたドイツ国民にとっては、問題は複雑である。正義としてのアンティゴネに自分を単純に重ねることはできない。ブレヒト版は、その意味での"屈折"を含んでおり、演劇として分かりやすくもないし、面白い作品でもない。ブレヒト版は、長老のコロスの次の言葉で終幕となる。「だがすべてを明察した彼女も、結局は敵を助けることになっただけだ。・・・時は短く、時間はもう限られていて、我らは忍耐を重ねたり罪過に走ったり、老いて賢明になる暇などもうないのだ。」つまり、アンティゴネは犬死だったと・・・。


上演した「東京演劇アンサンブル」は、ブレヒトの「ベルリナー・アンサンブル」を範として、一貫してブレヒト劇を上演してきた硬派の劇団のようだ。今回の上演では、「序景」をカットした代わりに、全篇に爆撃機の空襲音を入れて、連合軍のベルリン空襲を示唆していた。ブレヒト版は、コンテクストを共有しないと共感が難しいので、演劇的に高い感興をもたらしたとはいえないが、ソフォクレスアンティゴネ』の戦争の「含意の深さ」を伝えたという点で、大いに意義のある公演だった。