有名小説の冒頭部分を比べる

charis2009-03-08

[読書]  有名小説の書き出し部分を比べてみた


(右の写真は、若き日のスコット・フィッツジェラルド)


村上春樹訳『グレート・ギャツビー』を読んでいたら、その冒頭の書き出しの素晴らしさに、あらためて感嘆した。小説の書き出しといえば、『アンナ・カレーニナ』などが有名だが、やはり作家は実によく考えている。ためしに、手元にあるいくつかの小説の書き出しを眺めてみた。どれもいい。


スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』(村上春樹訳)
>僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」


アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巌谷國士訳)
>私は誰か? めずらしく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか?


オヴィディウス『恋愛指南』(沓掛良彦訳)
>誰にもせよこの民のうちで愛する術を知らぬ者あらば、これを読むがよい。して、この歌を読み、愛する知恵を心得て愛するがよかろう。技術によって帆と櫂をあやつってこそ、船は海面をすみやかに渡るのであり、技術によって戦車も軽やかに走るのである。


近松秋江『黒髪』(註:著者は男性)
>……その女は、私の、これまでに数知れぬほど見た女の中で一番気に入った女であった。どういうところが、そんなら、気に入ったかと訊ねられても一々口に出して説明することは、むずかしい。が、何よりも私の気に入ったのは、口のききよう、起居(たちい)振舞いなどの、わざとらしくなく物静かなことであった。そして、生まれながら、どこから見ても京の女であった。


フランソワーズ・サガン悲しみよこんにちは』(朝吹登水子訳)
>ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。


ジェイン・オースティン自負と偏見』(中野好夫訳)
>独りもので、金があるといえば、あとはきっと細君をほしがっているにちがいない、というのが、世間一般のいわば公認真理といってもよい。
 はじめて近所に引越してきたばかりで、かんじんの男の気持ちや考えは、まるっきりわからなくとも、この真理だけは、近所近辺どこの家でも、ちゃんときまった事実のようになっていて、いずれは当然、家(うち)のどの娘かのものになるものと、決めてかかっているのである。


ナボコフ『ロリータ』(若島正訳)
>ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
 朝、四フィート10インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。書名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。


こうやって並べてみると、やはり、『ロリータ』は凄い!