ワーグナー『ラインの黄金』

charis2009-03-11

[オペラ]  ワーグナーラインの黄金』 3月10日・新国立劇場

(写真は今回の舞台。右はアルベリヒを囲むラインの三人の乙女。下は、ヴォータンを中心とする神々の住みか、星に囲まれた宇宙船の船内のよう。そして、ヴォータンを囲むフライアなど一族、ただし後方の二人は巨人族。)

ワーグナー『指環』4部作の実演を東京で見られるのは嬉しい。キース・ウォーナー演出の「トーキョー・リング」は2001年〜4年の初演で、今回はその再演。私は前回見ることができなかったので、今回が初めて。ウォーナー演出は、現代的でポップな感覚に溢れ、視覚的に美しい。『指環』は、神々が人間に自由を与える代償として自らは没落するという壮大な神話だ。今回、大音響の舞台を見てあらためて感嘆したのは、神話の物語のそれぞれの局面にワーグナーが実にふさわしい音楽を付けているという、その融合の素晴らしさである。音楽だけでもダメ、演劇だけでもダメで、両者がぴったりと息を合わせて相乗効果を生んでいる。この相乗効果が、ワーグナーのしびれるような"魔力"なのだ。


ワーグナーは神話の使い方がとてもうまい。『指環』は、「男にとって究極の価値とは何か?」という問いに貫かれている。この問いを火の神ローゲが世界中を聞きまわった結果、「男にとっての究極の価値は、女。それ以外にはありえない」という点で、すべての人類や神々の意見は一致した。たしかにヴォータンもゼウスも、途方もなく好色だ。だが、それゆえにこそ、ラインの乙女たちにコケにされた「もてない男」アルベりヒのルサンチマンと呪いは深い。彼は「女を断念した」がゆえに、その代償として、全世界を支配する黄金の指環を手に入れる。女を自由に手に入れられる男と、まったく手に入れられずに究極の価値から疎外された男。この単純な対立が、神話を面白くしている。


今回の舞台では、ヴォータンの正妻フリッカの造形がちょっと変わっている。

(左は、エレーナ・ツィトコワ演じるフリッカ、右は、ヴォータンを演じるユッカ・ラジライネン) フリッカは王妃なのだが、ビジネススーツに身を固めた姿はどうみてもキャリアウーマンタイプの女性だ。ヴォータンにお尻を触られてフリッカは嫌がっているのだが、職場のセクハラみたいで、神々の王とその王妃には不似合いな光景といえる。本来、"専業主婦"であるべき王妃が共稼ぎのキャリアウーマン風になっているのは、夫と正妻という夫婦の不安定性を暗示する演出なのだろう。フリッカは終始おどおどしており、呆然と立ち尽くしたり、しゃがみ込んでいることが多く、王妃としての威厳を欠いているが、これも"夫婦"に対する現代的解釈といえる。


終幕、巨人族にフライアが奪われるのを何とか阻止し、ヴァルハル城の定住に向かうヴォータン一族の移動場面を、まったく新しいポップな一場面に転換したのは巧い演出だと思う(写真下↓、左から3人目がフリッカ、中央がヴォータン、右端がローゲ)。フリッカもヴォータンも、ビジネススーツではなく、神々の神話的な服装に戻っている。これで、『ラインの黄金』は、神話として終了するわけだ。


歌手では、声量の豊かなエレーナ・ツィトコワが印象に残る。彼女は、6年前の新国立劇場フィガロの結婚』のケルビーノ役で日本デビューしたが、とても若々しく(ひょっとして20代前半?)、スリムで美しく、玉を転がすようなあの独特の艶やかなリリックメゾソプラノの声が、今でも忘れられない。その後、やはり新国の『ばらの騎士』のオクタヴィアンも、ため息がでるほど美しかった。今回は、いよいよ王妃フリッカを歌ったわけだが、そのフリッカはとても屈折したフリッカだ。娘役から成熟した女性役へと、彼女も移り変わっていく。オケは、若い指揮者ダン・エッティンガーと東フィル。ハープがずらりと並ぶオケピットは壮観で、やはりワーグナーは大音響で聞いてこその音楽だ。4月の『ワルキューレ』が待ち遠しい。