コクーン歌舞伎『桜姫』

charis2009-06-15

[演劇] コクーン歌舞伎『桜姫(南米版)』  渋谷・コクーン

(右は、南米版と歌舞伎版を重ね合わせた広告画像。下は南米版の役者など)

鶴屋南北の歌舞伎『桜姫東文章(あずまぶんしょう)』を、若手劇作家の長塚圭史が現代劇に書き換えた。筋は南北の原作をほぼなぞっているのだが、場所を現代の南米にワープしたので、ガルシア=マルケスを思わせるような不思議な作品になっている。原作は、とても複雑で奇妙な物語。同性愛の稚児と心中しそこなって生き延びた「高僧」清玄が、公家の娘桜姫に、死んだ稚児の生まれ変わりを見て取る。清玄は、自分だけ生き残った前回の心中を悔い、今度こそは一緒に死のうと桜姫(=稚児の生まれ変わり)を追いまわす。桜姫は大いに迷惑がるが、ある時、彼女は悪党の権助(ごんすけ)にレイプされて赤ん坊を産む。しかも、彼女は権助を愛してしまう。桜姫には別の婚約者もいて大騒動になり、話はもつれにもつれ、清玄は死に、権助の妻となった桜姫は遊女として売り飛ばされ、そして最後に、清玄と権助は実は兄弟だったことが分る。桜姫は、権助が公家である自分の父を殺した犯人であることを知り、権助を殺して、名門の家の再興を誓う。


南北の原作はこんなめちゃくちゃな話で、江戸時代の歌舞伎を大いに盛り上げたわけだが、長塚は、それをそのまま現代の南米の物語に「書き換え」たので、もう何がなんだか分らない混沌とした舞台になっている。マルケスマジックリアリズム百年の孤独』や『エレンディラ』を、もっとおどろおどろしくしたような感じだろうか。原作の登場人物はアクの強い人物ばかりだが、それがとても巧みに現代人のキャラと役者の個性にマッチしている。僧・清玄は、貧民の救済に熱心だが何となくあやしい神父セルゲイに(白井晃)、権助は、野生的な悪党ゴンザレスに(勘三郎)、桜姫は16歳の若い娘マリアに(大竹しのぶ)、それぞれ書き換えられる。そして、セルゲイの弟子からゴンザレスの弟分に転向する現実主義者ココ(古田新太)、桜姫の侍女からココの愛人に転進し、蛇を食いちぎる猛女イヴァ(秋山菜津子)など。クセのある人物ばかりだが、どれも生き生きとして精彩に富み、役者はとても巧い。終幕、セルゲイとゴンザレスが「たとえ醜くても、さあ、生きてゆくぞ!」となるところが原作と違う。演出は串田和美なので、昔の自由劇場風に、役者が楽器を奏でる場面もある。伝説の名舞台『上海バンスキング』で活躍した笹野高史もいる。


猥雑なエネルギーに満ちた混沌とした舞台は、それなりに面白かったが、私には、説明的な台詞がやや多いように感じられた。セルゲイがつねに背負っている巨大な十字架はパロディなのだろうが、彼は信仰や罪について頻繁に語る。他の人物も、自分の人生観・世界観のようなものをよく口にするが、やや浮いた感じがするときもある。南北の原作は理性とか反省とかには無縁の世界のはずだから、中途半端な理性的な台詞はない方がよいのではないか。また、「不条理劇」に持っていこうとするには、原作はどうも違うような気がする。そして、様式化が完成している歌舞伎を、あえて現代劇化することの難しさも感じた。歌舞伎版『十二夜』のように、西洋演劇を様式化する試みはあるが、完成された日本の様式美をあえて崩して現代演劇化するのは、まだほとんどなされていないのではないか。野田秀樹『ザ・ダイバー』など優れた試みはあるが、これからだと思う。本作も、そうした実験的試みの一つなのだろう。


プログラムノートに勘三郎が次のように書いている。
>財産になるか、やめればよかったかはやってみないとわからない。でも、いつもやらないよりはやったほうがいい、と行動して今日まで来たんだ。失敗したらベロ出して「ごめんなさい」と言えばいい。そのたびに驚いたり、逃げたり、はりきったりして芝居は作るもので、うちのじいさんの時代には歌舞伎もそんな「びっくり」の連続だったと思うんです。それがいつの間にか、型を習うお勉強になっちゃった。


「型を習うお勉強」になるとつまらないものしか生まれないのは、哲学も同じだ。