濱口桂一郎氏へのお答え

charis2009-08-07

[議論] 濱口桂一郎氏へのお答え


(写真は、リベラルアーツの源流の一人プラトン(左)。体育、音楽、文芸、算数、幾何、天文を学ぶことの重要性を説いた。)


濱口桂一郎『新しい労働社会』についての私の書評に対して、濱口氏がご自分のブログで丁寧なコメントをくださった。そのことを感謝するとともに、こうして著者と直接意見の交流ができるブログは、つくづく有難いものだと思う。↓
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/charis-772a.html


本書における労働と雇用をめぐる濱口氏の現状分析は見事なものであり、その部分については、コメントで氏が述べられたことも含めて、私には異存はない。私が氏と大きく見解を異にするのは、大学教育が持つべき「職業的レリバンス」についてであり、コメントによって氏の見解がさらに詳しく示されたので、再度私の見解を述べてみたい。以下、>に続く文章は、氏のコメントからの引用。


>まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。


本書では、「職業的レリバンス(意義)」という言葉を濱口氏は、本田由紀氏の著作を引用する形で述べられており(p136)、完全に肯定的に引用されているので、私には、本田氏と濱口氏の「職業的レリバンス」という概念の細部の違いは分らない。私はこの言葉を本書で初めて知ったので、私が述べたような「リベラルアーツにもとづく汎用性のある基礎学力」を、そういうものは「職業的レリバンス」と呼びたくないと言われるなら、それはそれでよい。「職業的レリバンス」という言葉はそれほど一般的でも自明でもないので、議論を通じてその意味を正確に規定してゆけばよいからである。


しかしまた、私は「人間力」という言葉を使っていないし、使うつもりもない。濱口氏が、「あなた(charis)が「職業的レリバンス」と呼んでいるものは「職業的レリバンス」ではぜんぜんなくて、「人間力」のことですよ」と言われるならば、そんな曖昧な言葉に「リベラルアーツ」を勝手に言い換えてもらっては困る。「リベラルアーツ」という概念は、プラトンアカデメイアで青年が学ぶ科目として考えたことに始まり、職業人として専門家を養成する機関としての大学に不可欠なものとして、長い歴史の中で形成されたものである。どうして「職業的レリバンス」と無関係なものでありえようか。大学は社会の一部であり、しかも公的な存在であるから、大学で学ぶことは何らかの意味で、社会的な意義を持たなければならない。その「社会的な意義」を一番根本的なところから考えてゆき、その意義の一部が狭義の「職業的レリバンス」になるだろう。


濱口氏は、「ジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性」という区別をされているから、これを援用するならば、大学教育のもつべきレリバンスは、「ジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性」という二つの有用性とどのような関係にあるのか、というように問題を立てることができるだろう。


>実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。・・・企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。


なるほど、卓見である。法学部・経済学部卒ならば、長時間労働の強制に少しも疑問を抱かず、無邪気な企業戦士として使いやすいが、文学部卒ならば世俗に批判的な「知の力」なぞもっている可能性があるから使いにくいのだ、と。しかし、もしそうであるならば、長時間労働を批判し、無邪気な企業戦士としての正社員を中心とする日本的雇用を変えてゆくべきだと主張される濱口氏は、リベラルアーツ型の大学教育こそ大いに支持されるのが「論理的帰結」ではないだろうか? 氏が力説されるワークライフバランスのある働き方とは、無邪気な企業戦士的な価値観からもっと自由になろう、人間らしく生きようということであろう。それならば、「ジョブ型の有用性」にだけ氏の関心が向くのは矛盾しているのではないだろうか?


>それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。


濱口氏の認識が読み取れる貴重な一文である。法学部や経済学部教育には、本来、職業レリバンスがあるべきなのに、現実の日本の法学部・経済学部教育には職業レリバンスがない。だから、もっと職業レリバンスをもってもらわなくては困る。それに対して、文学部で教育されるリベラルアーツには、その本来の意義からして、職業レリバンスなどないのから、現実の日本の文学部教育に職業レリバンスがなくても、それはそもそも労働や雇用の外部の話だ、勝手にしてくれ、と。だが、濱口氏よ、ちょっと待っていただきたい。以下は、日本の大学の学部別の人員構成である。

日本の大学には実に多様な学部があることが分る。文学部は全体のたった5.9%を占めるだけである。法学・経済だけでなく、工学部、医学部、歯学部、薬学部、看護学部教育学部家政学部、芸術学部などがあるが、これらの学部は、法学・経済学部に比べると、はるかに卒業後の職業に直結していないだろうか? 家政学部は、女性の仕事を念頭において創られているのではないのか? これらの学部教育に「職業レリバンス」がないとでも、濱口氏はお考えなのだろうか? まず、濱口氏が誤解されているのと違って、リベラルアーツというものは、文学部にある(?)「世俗を斜めの視線で見る超俗の価値観」などではない。これら多様な学部がそれぞれの職業と結び付き、それぞれの「職業的レリバンス」を持ちうるためにも、共通の前提となる「教養知」のことである。古代中世ではなく、現代の大学の言葉に言い換えるならば、「市民的な共通感覚sensus comunis」を養うための、どの学部でも学ぶべき共通の知のことである。決して文学部だけにあるものではない。そもそも濱口氏の文学部に対する認識には偏ったところがある。


>高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、・・・むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピア源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。


今日、文学部は大学全体で僅かな比率を占めるだけだし、女性は主として文学部にいるわけでもない。4年生大学の進学率が50パーセントを超えた今日、女子学生は多様な学部に属している。氏のリベラルアーツ認識が貧困なのは、文学部に対する認識が貧困であることのまさに「論理的帰結」ではないだろうか。今日は、これ以上論じられないが、大学における「職業的レリバンス」というものは、男性も女性も等しく働くようになった今日、「ジョブ型の有用性」よりももっと広く深いレベルから考え直されるべきであると思われる。私はもちろん「ジョブ型の有用性」を否定しない。しかし、大学の学部の多様性から見ても、すでに「ジョブ型の有用性」を十二分に持っている学部がたくさんあるのが現実である。現在の大学は「虚学」ばかりが支配的で、これをもっと「実学」化しなければならないという濱口氏の認識は、一部を見て全体を見られていないように、私には感じられる。この点は、氏とさらに意見を交換したい点でもある。