二つのシャネル映画

charis2009-09-26

[映画] 『ココ・アヴァン・シャネル』(25日、池袋サンシャイン・シネマ)、『ココ・シャネル』(26日、土浦サンシャイン・シネマ)


(写真右は、映画『ココ・シャネル』、下の写真は実在のシャネル)

ココ・シャネル(1883〜1971)の伝記映画を二本見た。だいぶ違う作りだが、二つを比べると、いろいろなことが見えてくる。まず『ココ・シャネル』(2008、アメリカ映画、英語)の方は、あまりにもメロドラマになり過ぎている。孤児院を出てお針子をしていた25歳のシャネルが、大富豪のエチエンヌ・バルサンに見初められ、愛人として豪邸に囲われる話と、バルサンの親友のイギリスの実業家ボーイ・カペルが、シャネルに資金援助し、彼女を世に送り出すが、二人の恋愛は結婚直前まで行きながら破綻し、ボーイが事故死する悲恋の物語。実話だが、細部は創作だろう。シャネルの生涯の協力者であるアドリエンヌが、一方の映画では「姉」に、他方では「年のほぼ同じ叔母」になっている。出生や家族構成などの基本的事実も、シャネルが伏せていたので、よく分っていないのかもしれない。


メロドラマ過剰とはいえ、『ココ・シャネル』は、シャネルの服が新しい文化産業の頂点として君臨するまでの権力関係の凄まじさを垣間見せてくれる。映画は、1954年のシャネルの復帰コレクションから始まるが、そこに寄せられた祝電は、コクトーピカソ、ストラビンスキー、チャーチルなどすごい面々。シャネルのファッションは、ある種の「文化的権威」に裏付けられている。ケネディ暗殺のとき、横に立つジャクリーン夫人の服がシャネルだったというような、有名人によるファッションの物語が欠かせないのだ。シャネルは生涯結婚せず、たくさんの男性との「恋多き女」と言われるが、その相手をみると、ロシア亡命貴族のディミートリー大公、イギリスのウェストミンスター公爵など、彼女の趣味にはどこか階級的・ヨーロッパ的なものがあるようだ。シャネル・スーツが爆発的に売れたのはアメリカであったとしても、シャネルは、ハイデガーやストラビンスキーなどと生没年が近く、第一次世界大戦が生み出したヨーロッパの破壊と創造の只中にあった創造者なのだと思う。だから、権威・権力者との結び付き方にも独特なものがあり、戦後は、戦中の対独協力を疑われて、54年の復帰コレクションまでスイスに亡命したことも、なるほどと思われる。もし映画『ココ・シャネル』がこのあたりの問題も掘り下げていたら、もっと深みが出ただろう。


それはともかく、映画を見て思うのは、シャネルの服の独創あふれる美しさである。シンプルで、身体を自由に解放し、それでいて気品を失わない。コルセットのいらない服、飾りのない帽子をかぶった人間がどれほど美しいか、『ココ・アヴァン・シャネル』(2009,フランス映画)の画像を見てみよう。第一次大戦中、ノルマンディー海岸のドーヴィルに立つココの後姿がある↓。コルセット服の女性たちの中に、一人ぽつねんと立つ彼女。これだけでも十分に革命を予感させる光景だ。

ココ・アヴァン・シャネル』でココを演じるのは、フランスの女優オドレイ・トトゥ↓。実物のココのようにアクの強い顔立ちではないが、仕事をするときの鷹のように鋭い視線は印象的だ。そして何よりも、着ている服がよく似合う。

新しい様式が生まれる瞬間には、とてもデリケートな何かがある。古いファッションの細部をあれこれと直す人々の「解決」の中に、ココは、むしろ「問題」を見てしまう。解決でないものを「解決」とみなす人々の錯覚こそが、本当は「問題」なのよ、と。こういう直感に、ココ・シャネルの天才があるのだと思う。


プログラム・ノートで知ったのだが、ココ・シャネルが衣装を担当した映画に、ジャン・ルノアールゲームの規則』、ルイ・マル『恋人たち』のジャンヌ・モローアラン・レネ去年マリエンバートで』のデルフィーヌ・セイリグがあるという。なるほどそうだったのかと、あらためて思う。どれも一度見たら忘れられないフィギュールで、黒と白の絶妙な美しさから成っている(黒白映画だから当然だが)。
>女は、あらゆる色を思いつくが、色の不在だけは考えない。私は、黒はすべてを備えていると前から言ってきた。白もそう。どちらの色にも絶対的な美しさがある。(ココ・シャネル)