マスネ『マノンの肖像』他

charis2009-10-12

[オペラ] プーランク『声』、マスネ『マノンの肖像』(新国立劇場小H)


(写真右は今回のポスター、写真下は、2007年バルセロナのリセウ劇場で、やはり「声」と「マノンの肖像」の二本立てで行われた舞台。「マノンの肖像」の人物は右から、ジャン、オロール、デ・グリュ)

東京室内歌劇場公演で、一幕もののオペラ小品を二つ。最初はプーランクの『声』。初演は1958年だが、台本をコクトーが書いたのは1930年で、電話という新しい道具が我々の生活の中に入ってきた頃の息吹を伝える。交換台を通して通話する電話は、よく混線し、またしばしば切れる。男と別れた女が、電話の向こうにいる元恋人と対話する痛々しい「声」が主題。ソプラノの一人芝居(今回は松本美和子)。睡眠薬自殺を図った女は、最初は強がりを言うが、次第に哀願調になり、最後には事切れる。電話線を首に巻きつけて、男との接触感を妄想する悲しさ。身体なき相手との「声」のみの緊迫したやりとりは、新鮮なテーマだったのだろう。だが、オペラとしてはやや単調に思われる。


二本目のマスネ『マノンの肖像』(1894)は、歌手は四人のみ、50分弱の小品だが、とても素晴らしい作品だった。プレヴォーの小説『マノン・レスコー』をもとにマスネ(1842-1912)が創った傑作オペラ『マノン』の続編。初老のデ・グリュは、昔、駆け落ちに失敗して亡くしてまった恋人マノンの追憶だけにひたって生きている。デ・グリュが面倒を見てやっている十代の若い子爵ジャンは、若い娘オロールに恋しているが、デ・グリュは、自分の経験から、愛だけで突っ走る若者の恋に否定的なので、二人の結婚を許さない。絶望した若者二人は死を考えるが、偶然、デ・グリュの部屋の箱をひっくり返し、マノンの肖像が現れる。何と、オロールはマノンにそっくりなのだ(実は、彼女はマノンの姪であった)。衣装を変えて現れたオロールがマノンの生き写しなのに驚いたデ・グリュは、マノンに免じて二人の結婚を許すというハッピーエンド。


もちろん、筋はたわいもない話だが、ジャンはケルビーノを思わせるメゾのズボン役で、とても可愛らしい。そして、オロールも瑞々しい少女なのだ(上記写真参照)。二人の若者にはコミカルな軽快さがあり、そこがとてもよい。死を考える二人だが、入水は体が膨れて顔が黒ずむからイヤ、首吊りは舌が出てみっともないからダメ、毒物は苦しむからノー、何かカッコいい死に方はないかなと歌う。でも、そんな死に方はなさそうだから、それじゃ自殺はやめて生きようか、生きようよ、ということになる。


歌詞も詩的で気が利いている。たとえば、
「真理の女神は井戸に住む。桶は上がって、また下がる」
「あなたのおでこにキスをして、冠の輪を作ろうか」


二人の二重唱は、比類なく美しい。この作品を見て思うのだが、オペラの魅力は何と言っても、ある物語の人物が自分の生を歌う、その声の美しさにあるのではないだろうか。私は三十代の頃まで、もっぱらピアノやバイオリンの器楽曲ばかり聞いていたが(今でも大好きだが)、いつ頃からか、人間の声がもっとも美しいと感じるようになった。アリアももちろん美しいが、最近は、二重唱、三重唱など重唱の美しさに特に心を打たれる。それはおそらく、オペラの演劇的要素がもたらす人間の動態的な複数性・多数性に支えられているのだと思う。