黒テント『ショパロヴィッチ巡業劇団』

charis2009-10-16

[演劇] 黒テント『ショパロヴィッチ巡業劇団』(神楽坂・iwato theatre)


(写真右は、ちらし。日程は変更で22日まで)


セルビアのリュボミル・シモヴィッチ(1935〜)による優れた戯曲が日本で初演された。小劇場での公演だが、いかにも劇団・黒テントにふさわしい批評性に溢れる舞台で、演劇の力というものをあらためて教えてくれる名作だ。演出はフランス人のプロスペール・ディス。「ユーゴ内戦中の複雑な戦争の中から生まれた」(プログラムノート) 本作(1986?)はこれまで英語、仏語、独語、韓国語などで上演されたそうだが、分る人のほとんどいないセルビア語の戯曲を、黒テントはよく頑張って上演したと思う。


物語は、ドイツ占領下のセルビア西部の小さな町ウジツェに、たった4人の巡業劇団がやってくる。ナチスの下にセルビア警察があり、そして当然、地下組織によるテロルと抵抗運動がある。町は、暗殺、摘発、拷問、処刑、裏切り、密告などが渦巻く凄惨な状況だが、そこで旅の一座はシラー『群盗』を上演しようというのだ。警察は、この怪しげな劇団を尋問するが、四人の発言は、生身の人間としての発言と舞台上の役者の発言との区別がついておらず、警察は翻弄される。下っ端役人をめぐるカフカ的状況と似た混乱が起きる。だが、演劇の真の障害は、実は警察ではなく町の民衆である。互いに疑心暗鬼になっている民衆は、異口同音に、「こんな悲惨な状況で、演劇のような娯楽は許されない。殺された者への喪に服している我々への侮辱だ」と、劇団を罵る。かくて、上演はなかなか実現しない。「演劇は人々のすさんだ心を癒す」と言われるが、そういう機能そのものが不可能なほど、秩序が崩壊しているのだ。


このような凄惨な状況下では、"最悪の人間"ともいうべき人間が現れる。「潰し屋」の若い男がそれで、特製の痛い鞭で殴って容疑者に自白させる特殊技術を持っているので、軍や警察の拷問で自白しなかった人間を引き受けて「吐かす」=「潰す」ことにより、民間人なのに権力から重宝がられている。この最悪の男「潰し屋」を民衆は恐怖し、無力感のうちに引き裂かれ、互いに反目し監視し合っている。このような絶望的な状況下では、演劇など無意味なのだろうか。上演ができないという意味では確かにそうも言えるが、しかし、より広義の"演劇的なるもの"を考えると、必ずしもそうではない。"芝居をする"という精神は、最悪の事態の中でさえ人間がなお楽天的であることを可能にするからだ。演劇においては、舞台の上は完全に虚構で、舞台と向き合う観客席は完全に現実だという区別は暫定的なものでしかない。虚構と現実が交錯する演劇的状況は、実は、テロルの渦巻く凄惨な町の状況と酷似している。人々はテロルを、「これが現実だなんて信じられない」「うそみたいな日常だ」と感じるからだ。


「ショパロヴイッチ巡業劇団」には、ソフィーという能天気な女の子がいて、泳ぐのが大好き。この非常事態だというのに水着になっては川で泳いでいる。ある深夜、泳ぎ終わったソフィーは河原で「潰し屋」と鉢合せする。暗闇の中で恐怖にかられたソフィーは、話題を足元にある野草に振る。思いがけず「潰し屋」は野草=薬草にとても詳しい男で、話は大いに盛り上がる。闇の中で薬草を探して動く二人。期せずして、若い男女の戯れ、愛の交歓のような感じになる。「あなたはなぜ、潰し屋なんかやってるの?もっとまともな仕事ができそうなのに」「ああ、俺はパン屋の職人とか、色々の仕事につけそうだった。だが、いつも何かがほんのちょっと不足してたんだ。」彼の転落も紙一重の小さなことから起きた。ソフィーに対して心を開き、少年のような無垢な表情になった「潰し屋」に、ソフィーは、なでしこの花をプレゼントする。


だが、このささやかな邂逅が現実を好転させるわけではない。「潰し屋」と河原で戯れたソフィーは、民衆から、裏切り者と糾弾され、暴行され、頭を丸坊主に刈り取られる。ついに一文無しになった劇団の4人は町を去ってゆく。一方の「潰し屋」はつかまり、首吊りにされるが、その手にはなでしこの花を握りしめていた。彼の中で何かが変わったのかもしれない。あるいは偶然かもしれない。結局、表面的には、何か良いことが起きたわけではない。黙示録的な希望が示唆されるわけでもない。おそらくテロルは、まだまだ続く。だが、この作品が示しているのは、虚構と現実の相互転換は、人間を死にではなく生に導くという根本事実である。舞台の上と、舞台の外部の現実との間に引かれる境界線は、つねに暫定的・人為的なもので、それはいつも動いている。どんな出来事も、それ自身の意味を自己のうちに完結されることはできない。新しいコンテクストの出現によって、意図も予期もされない新しい意味がそこに生まれてしまう。どこにも予定調和はないのだが、おそらくこれが、神なき人間にとっての黙示録なのだろう。


黒テントの上演は、役者が全員楽器を奏で、歌い、踊る。今回歌ったのはセルビア語なのだろうか? 歌と演奏と踊りは、ひょっとして原作にはない、自由劇場以来の黒テント風演出かもしれない。演出家はセルビア語も日本語も分らないフランス人だから、演出家にとっても役者にとっても、困難は大きかったに違いない。だが、この小さな空間をこれだけ豊かな演劇空間に変貌させた黒テントに、私は大きな拍手を送りたい。
PS:劇団黒テントのHPより写真を借用します。ソフィー他4人の旅一座と、演出中のディス。↓