オースティン『ノーサンガー・アビー』

charis2009-10-20

[読書] ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(ちくま文庫、09年9月)


(写真右は映画版より、下は、本の挿絵と、オースティンが生まれ育ったスティーヴントンの牧師館)

オースティンの6つの主要小説の翻訳を進めている中野康司氏の新訳が出た。本書は、彼女の死後に出版されたが、22歳頃に書かれた事実上の処女作。やや荒削りで、小説の地の文にオースティンその人が突然現れて「熱く理論を語る」など、ナレーターが身を乗り出しすぎる印象がなくはない。筋も、終盤の展開が唐突すぎるなど、小説技法の完成度という点で、『高慢と偏見』や『エマ』のような傑作には一歩及ばない。また、『マンスフィールド・パーク』のように老成した恋愛観が語られているわけでもない。だが本作は、若きオースティンの問題意識と意欲が赤裸々にあらわれた、新しいタイプのラブコメディになっており、ある意味ではとても面白い本といえる。


まず何はともあれ、軽んじられている小説の価値を世の中に認めさせたいというオースティンの情熱が沸騰している。当時、小説は、女子供向けの軟弱な慰みものであり、男子たるべきものは歴史書を読むべきであり、文学の正統はあくまで詩であると考えられていた。『ノーサンガー・アビー』の文章を引用しよう。以下、「私」とは、物語の語り手である。


>そう、われらがヒロインは作品の中で小説を読んだのである。なぜなら私は、小説家たちのあのけちくさい愚かな習慣に従うつもりはないからだ。小説家は、自分も書いてその数を増やしている小説というものを、自分で軽蔑して非難して、その価値をおとしめたり、自分の敵と一緒になって、小説に情け容赦のない悪罵を浴びせ、自分の小説のヒロインが作品の中で小説を読むのを許さず、ヒロインが偶然小説を手にしても、つまらないページをつまらなそうにめくる姿ばかりが描かれる。ああ! 小説のヒロインが、別の小説のヒロインから贔屓にされなければ、いったい誰が彼女を守ったり、尊敬するだろうか? 私はあのような愚かな習慣に従うつもりはまったくない。想像力の営みを罵倒し、新刊小説が出るたびに、最近の新聞雑誌を埋め尽くす陳腐な言葉であれこれ評論するのは、批評家の先生方にお任せしよう。私たち小説家は、虐げられた者たちなのだから、お互いに仲間を見捨てないようにしようではないか。小説家が生み出した作品は、ほかのどんな文学形式よりも多くの真実と喜びを読者に提供してきたのに、小説ほどひどい悪口を言われたものはない。プライドや無知や流行のおかげで、小説の敵は小説の読者と同じくらい存在するのである。(p45f.)


>長大な英国史の九百分の一の縮約版を作った人、ミルトンとポープの詩の抜粋を作った人、・・・こうした人たちの才能は、千人のペンによって称賛されるのに、どうやら世の人々は、小説家の才能をけなしてその努力を過小評価し、才能と機知と趣味の良さにあふれた作品を無視したいらしい。私たちはこういう言葉をよく耳にする。「私は小説など読みません――小説はめったに開きません――私がしょっちゅう小説を読むなんて思わないでくださいね――小説にしてはよくできていますね」などなど。あるいはこういう会話をよく耳にする。「ミス○○、何を読んでいらっしゃるの?」と聞かれ、「あら! ただの小説よ!」と若い女性は答え、関心なさそうに、恥ずかしそうに本を閉じる。「なんだったかしら。『セシーリア』だか、『カミラ』だか、『ベリンダ』よ。」(p46、書名は当時人気のあった小説で、前二つはファニー・バーニー作、最後はマライア・エッジワース作、ともに女流作家)


>つまり小説とは、偉大な知性が示された作品であり、人間性に関する完璧な知識と、さまざまな人間性に関する適切な描写と、はつらつとした機知とユーモアが、選び抜かれた言葉によって世に伝えられた作品なのである。(p47)


冷静で非人称的であるべき小説の地の文が、こんなに「吠える」のも珍しい。『ノーサンガー・アビー』の原稿が出版社に留め置かれたまま、生前に出版されなかった理由はよく分らない。だが、この熱い文体に出版社がビビッたということも考えられるのではないか。それはともかく、書生っぽい小説論のおかげで、本作には、当時読まれていた小説の実名がたくさん出てくるのも楽しい。また一方では、本作のヒロインのキャサリンは、ゴシック小説(ホラー小説のはしり)の読み過ぎで、やたら妄想をたくましくして、大失敗をしてしまう。夢見がちな「文学少女」を自虐的にちゃかすという、オースティンの醒めた視線も冴えているのだ。つまりこれは、小説を愛し過ぎて、小説で失敗する女の子の物語である。そして本作のヒロイン像は、現代人には当然過ぎて意識もされないが、実はきわめて斬新なのである。というのは、それまでの小説のヒロインは、上流階級でとびきり美人のお嬢様というワンパターンであったが、キャサリンは、美人でもない17歳の「普通の女の子」だからである。ピアノも弾けないし、絵もダメ、フランス語はぜんぜんものにならなかった(p10)。これは、当時の標準的ヒロインとしては失格である。それだけではない。当時のしきたりでは、女性は男性に求愛されるまでは、たとえ自分が相手を好きでもその感情を見せてはいけないとされていたのに、キャサリンは、相手のヘンリーに自分の愛情を先に見せてしまう。


>つまりヘンリーは、キャサリンから愛されていると確信したために、彼女のことを真剣に考えるようになった。これは、恋愛物語としては新しいパターンかもしれないし、ヒロインの名誉を著しく傷つけることになるかもしれない。(p370)


やや解説的な言い回しであるが、ここでオースティンは自分が新しい恋愛モデルを提出したことを述べている。つまり、キャサリンが先に愛情を見せたから、それを受けてヘンリーは彼女が好きになり、二人は婚約するに至ったのだ。愛情を先に見せることが「ヒロインの名誉を著しく傷つける」時代にあって、オースティンが踏み出した小さな一歩は、しかし大きな一歩となった。この作品は作家の理念が先行しているという点で、処女作にありがちな未熟さがあるが、しかし、小説という表現形式を存分に用いて新しい恋愛モデルを提出した創作者オースティンの、まぎれもない記念碑的作品なのである。