ティルソ・デ・モリーナ『セヴィーリアの色事師と・・』

charis2009-11-18

[読書] ティルソ・デ・モリーナ『セヴィーリアの色事師と石の招客』(会田由訳、『世界文学大系89』筑摩書房、1963)


(写真右は、舞台写真。下は、修道僧モリーナの肖像と本の表紙)

9月に静岡芸術劇場で観たオマール・ポラス演出『ドン・ファン』が面白かったので、もとの戯曲を読んでみた。ポラス演出はモリーナの原作通りではなく、モリエール版などを一部加味し、かなり自由に脚色したようだ。1630年刊のモリーナの原作は、スペインでは人気作で、今日でも上演されているらしい。モリーナは好色ものをたくさん書いたので、メルセー派修道士にふさわしくないと告発を受け、左遷されたという。「女性の性格描写の精妙さに抜きん出ていた」そうだが、修道士もいろいろなのだ。


モリーナの原作はかなり複雑な物語で、モリエールモーツァルトも、それぞれ違った仕方でそれを簡略化している。モリエール版にはドンナ・アンナと父の騎士長の話がなく、ドン・ファンが昔殺した騎士の石像の復讐を受け、雷に打たれて死ぬという話。モーツァルト版では、海で溺れそうになったドン・ファンと従者が、漁師の娘に助けられる話が欠けている。またモリーナ原作にはドンナ・エルビラが登場しないが、彼女に相当するのが、ナポリのイサベラ姫だと思われる。イサベラ姫はオクタビオ公爵の許嫁だったが、ドン・ファンに騙されて体を許してしまい、それで、結婚を求めてドン・ファンを追いかけ、セビリアまでやって来る。モリエール版では、エルヴィールはドン・ファンの妻とされているから、原作のイサベラがエルヴィールになったのだろう。


しかしそれ以上に、原作のドン・ファン像そのものが、モリエールモーツァルトとは違う。ドン・ファンは一人前の男性というより、女の子のナンパに夢中な未熟な若者だ。彼の父ドン・ディエゴはスペイン国王の第一の寵臣で、大法官。彼の叔父は、スペインのナポリ大使で、ドン・ファンナポリでイサベラ姫をナンパした不祥事に対して、機転をきかせて彼をセビリアに送り返す。叔父、父、国王などは、ずっとドン・ファンを可愛がっており、不祥事を知った後も穏便に事を運ぼうとする。国王は、ドン・ファンを伯爵に叙して広大な領地を与え、そこでイサベラ姫と結婚すればよいと、大甘な処置を考える。ドン・ファンは自分がそういう庇護を受ける超特権階級であることに甘えて、安心してナンパを繰り返す。要するに不肖の息子を抱えた親がかりの物語なのだ。


ドン・ファンは確かに「勇敢」だが、それは本物の徳というよりは、勇気があるように見せたいという若者特有の虚栄にすぎない。たとえば、騎士長の石像がやって来たのに驚愕したドン・ファンは、「今度はお返しに貴方が来てほしい」という騎士長の申し出にOKしてしまうが、本当は怖くてしかたがない。侍従に言った科白は、「ああ助からないぞ! 体じゅう水を浴びたようだし、心臓がひやりと凍るかと思ったよ・・・しかし、明日は招きを受けたその礼拝堂へ行くとしよう。それで、俺の勇気のすばらしさで、セビリアじゅうを驚かせ、あっけにとらせてやるんだ」(p268)。つまり、勇気があるところを人に見せたいというのが動機。そもそも騎士長の石像とドン・ファンが関りになったのは、モーツァルト版のように石像の方から語りかけてきたからではない。ドン・ファンは石像の髭を引っ張るという子供っぽい悪戯をして、その際、「どうだい、復讐したいなら、俺の家に来ないか」と悪態をついた。そのときは石像は何も言わずに、実際にやって来たのである(264)。軽薄な挑発ゆえに自ら招いた事態といえよう。そして、騎士長の要請に答えてお返しに彼を訪問したドン・ファンに、騎士長は、さそりと毒蛇の料理を出し、怪しいぶどう酒をふるまう。よせばいいのに、ドン・ファンは強がって「地獄に棲むありとあらゆるマムシだろうと、出されれば食べてみせよう」(272)と、食べてしまう。どうやらそれがいけなかったらしく、ドン・ファンは体が焼けるように熱くなり、騎士長に手を握られて死ぬ。雷に打たれる(モリエール版)とか神罰が下る(モーツァルト版)のではなく、ドン・ファンの死は、強がりが招いた自業自得にみえる。侍従は最後に国王にこう報告する。「ドン・ファンさまは・・・ある晩騎士長をからかって、石像の髭をひっぱって屈辱を加え、晩餐に相手を招かれました。しかし石像などを招待しなければよかったのです!」(274)


ドン・ファンはドーニャ・アンナの寝室に押し入った際に、変装に気づかれて騒がれたので、彼女の貞操を奪うことはできなかった(273、274)。モーツァルト版のドンナ・アンナではこの点は曖昧になっているが、原作ではアンナの貞操は奪われていないとはっきり書かれている。また原作には、ドン・ファンの親友にモータ伯爵というとても好色な貴族がいて、二人は女の品定めやナンパ経験を楽しそうに語り合う(249)。ドン・ファンは特別の例外というわけでもなく、彼のような貴族は他にもいるのだ。ドーニャ・アンナの寝室にドン・ファンが押し入ったのも、本来はアンナとモータの合意の逢引であるところを、偶然アンナのラブレターを手に入れたドン・ファンがモータの服を借りて変装し、勝手に訪れたのだ。オクタビオもモータもドン・ファンの親友だから、おそらくドン・ファンは、「アイツのオンナをちょいナンパしてみっか」くらいの軽いノリだったのだろう。


また、モーツァルト版では、ドン・ファンはツェルリーナを力づくで手ごめにしようとしたように描かれているが、原作は違う。農民の娘アミンタは「結婚しよう」というドン・ファンの甘言を本気にして、「それだけ誓ってくさったんですもの、もう私はあなたの妻ですわ。私の身も心もあなたのものですわ」(261)と彼を喜んで受け入れる。そしてその後二週間はドン・ファンに騙されたとは思わず、「自分でドニャ・アミンタと名乗っていた」(264)。アミンタもイサベラも、ドン・ファンが逃げたことは怒っているが、追っかければ彼は自分と結婚するものと思い込んでいる。複数の女性と一人のドン・ファンとの結婚は実現不可能ではあるが、最後にこの矛盾は喜劇にふさわしい仕方で解決される。最後、ドン・ファンが死んだという知らせを受けて、アミンタは最初の許婚者のバトリシオ(=マゼット)と、アンナ嬢は最愛の人モータ伯爵と、イサベラ姫はオクタビオ公爵と結婚することになり、めでたしめでたしの大団円となる。最初の許婚者オクタビオは、「イサベラは貞操を失ったくせに」などという野暮は言わない。彼は自分から、「ところでイサベラ姫は寡婦になったのだから、私は彼女と結婚しよう」(274)と言い出す。アミンタもイサベラ姫も<ドン・ファン未亡人>なのだから、彼女たちを娶ることは、天下晴れての幸せな結婚なのだ。見事な解決。このように、ティルソ・デ・モリーナの原作は、モーツァルト版とは大きく違って、喜劇の大団円で終る物語になっている。