岩波講座哲学12『性/愛の哲学』(1)

charis2009-12-06

[読書]  岩波講座哲学・第12巻『性/愛の哲学』(1) 2009年9月刊


戦前から続く岩波哲学講座だが、今回、『性/愛の哲学』というテーマの巻が登場した。フロイトラカンフーコー、バトラーなど、20世紀には「性」が哲学のテーマとして前景化し、ジェンダー研究も活性化したことが背景にある。全体を通読した印象では、収録論文はやや玉石混交か。その中では、小泉義之「性・生殖・次世代育成力」が鋭く、また田村公江「性の商品化――性の自己決定とは」も力作だ。観点が違うこの二つの論文の考察はともに、期せずして、"正常で健康な"男女の性愛それ自体が内包する非対称性、不平等性、強制性、暴力性、罪責性、原罪性などに行き着いている。


小泉論文は、そのタイトルが示すように、異性愛、生殖、子育てという論理的には独立でありうる三項が、人類の歴史においては三位一体のものとして扱われ、恐るべき強制力を持ってきたことに焦点を当てる。しかし20世紀以降、その三位一体に対して異議申し立てが行われており、小泉は、この異議申し立てを検討する。(1)男女が性関係をもつこと、(2)妊娠・出産すること、(3)生まれた子供を育てること、この三つは別々の行為であり、必然的に結び付くものではない。たとえば、ある女性が精子銀行で精子を購入し、妊娠・出産して、そこで生まれた子供を別の女性が育てるならば、(1)なしに(2)が実現し、(2)と(3)は別の女性に分離されている。しかしこれは通常は「不自然なこと」と思われており、同じ一人の女性が(1)(2)(3)を時間的に順番に行うのが「自然で」「望ましい」とされてきた。だが、この「自然な」三位一体も徐々にその様相を変えている。(3)の育児は、昔から上流階級では産みの母ではなく乳母や女中が行ってきたが、現代では保育園など育児の社会化が進んでいる。産みの母の育児は部分的だという意味では、(2)と(3)のつながりは緩んでいる。では、(1)異性愛の性関係と(2)妊娠・出産の繋がりはどうか。小泉はレズビアンフェミニズムの主張と実践に注目する。


リベラルフェミニズムは、政治的・社会的な不平等やレイプなどの暴力がなくなれば男女の性愛は本来平等であると考えるが、レズビアンフェミニズムはそうは考えない。「男女間の性行為そのものが、本源的かつ一次的に不平等であり」(p123)、「男女の差異と男女の関係が対等平等になることは原理的にありえない」(122)のだ。男女の性行為の本源的不平等性というのは、必ずしも奇妙な主張ではない。後で触れる田村公江論文でも、議論は、男女の性愛の非対称性に行き着いている。女性が性的快感を得るには男性の協力が必要であるという点で、女性は男性に依存する「ハンディキャップ」を負っている(189)。このハンディが、つまり男性の能動性に対する女性の受動性が、女性に対する男性のある種の“支配”を可能にしている。この“支配”を嫌悪するがゆえに、レズビアンは男ではなく女をパートナーに選ぶ。


小泉が挙げるもう一つの議論は、生殖に結び付かない男女の性交の「罪責性」「原罪性」である。ウィトゲンシュタインの弟子として有名な女性哲学者G.E.M.アンスコムは、コンドームのような避妊は根源的に悪であると考える。避妊によって性交が妊娠や生殖から切り離され、快楽を目的とする性交が可能になることは、婚姻からその秘蹟と神聖さを失わせることであり、「生め、殖やせ、地に満ちよ!」(旧約)と命じた神に対して、神の子としての人間の本分に背くものだからである。性交はあくまで生殖に奉仕すべきものであり、性交の快楽は生殖を促進するためにやむをえず与えられた裏金のようなものだから、生殖を忘れて裏金だけネコババしようというのは恥ずべき裏切りなのだ! 一見、正反対に見えるアンスコム保守主義と、ラディカルなレズビアンフェミニズムの双方が、実は、"正常で健康な"男女の性愛のもつ非対称性、罪責性という点で、つまり、男と女という非対称の肉体への「受肉」の「原罪性」という点で、不思議な一致を見せるというのが、小泉論文の核である。


小泉論文は、「死すべきものと」しての人間という視点から、性愛や生殖を捉えたところに特徴がある。小泉は、レズビアニズムを、「異性愛の特権性を否定し新生殖方式を活用することによって、性一般と次世代育成をダイレクトに結合する道を開いた」(134)として高く評価する。だがレズビアンは社会全体からみれば少数派である。「その人生は孤絶の様相を帯びざるをえないことも確かであって、そうではあっても、あるいは、そうであるからこそ、単独者の人生は自足しうるし、その意味で満足しうるし幸福でありうる。おそらく、孤独に死ぬことさえも、自足のあり方の一つである。」(132) 考えてみれば、異性愛で結ばれた夫婦や親子は、「離婚」で引き離される可能性があり、必ず「死」という別れで引き離される。単独者には、この別れの悲しみがない。「親密な<ペア>はそれとして自足し難い。あるいは、そう見なされている。<ペア>には生き別れと死に別れがあるからである。<ペア>は単独者以上に過剰に死と死別を恐れている。」(133)  [続く]