岩波講座哲学12『性/愛の哲学』(2)

charis2009-12-07

[読書]  岩波哲学講座・第12巻『性/愛の哲学』(2) 2009年9月刊


(写真は、田村公江氏の別著)


収録論文の田村公江「性の商品化――性の自己決定とは」も力作である。田村論文は、ポルノグラフィーと売買春を扱うもので、「制度としての性の商品化に反対する立場で、・・・制度としての売買春=買春機会を保証する社会のあり方に反対するのが、筆者の立場である。」(p170) ここでは、なぜ売買春は悪いことなのか、その論理を根源的なレベルで構築しようとする田村の議論を見てみたい。田村はまず、現代の日本社会が売春に寛容である理由として二つを指摘する(172)。(1)貧困に迫られての悲惨な売春はすでに過去のものとなったという楽観的認識、(2)性は個人的な事柄であり、当事者の自己決定に委ねておけばよいというリベラリズム。この(1)(2)にそれぞれ対応して、売買春を条件付きで肯定する考え方が二つある。


まず(1)に対応するのが、セックスワーク論である。セックスワーク論によれば、売春者は性的サービスを提供して対価を得るという点で他のサービス労働者と何ら変わらないから、売春を正当な労働と認め、売春者を蔑んだりせずに、労働者として認定しなければならない。売春は通常、売り手と買い手を仲介する業者の不当な搾取が大きいし、東南アジアの少女が甘言に騙されて日本に連れてこられ、その費用を払うためと称して強制的に売春させられる人身売買もある。これらの不当性を糾し、労働者としての正当な報酬と身分を売春者に保証し、彼女たちが自尊心に満ちた自己定義ができるようにすること。これがセックスワーク論の主張である(183f)。また、(2)に対応するものとして、性的リベラリズムがある。性的リベラリズムによれば、性を売るのも性を買うのも人間の自由の一部であり、こうした性の自己決定権は尊重されなければならない。「売るのはよくない」とか「買うのはよくない」というのは、その人が信奉している性道徳の価値観を他人に押し付けることであり、また売春を犯罪とすることは、国家権力による個人の自由への不当な介入である(180f)。


田村は、セックスワーク論や性的リベラリズムが、それぞれ一定の意義をもつことを認めながらも、そのどちらをも批判する(180~184)。セックスワーク論は、性を売る側の女性の権利を保護しようとするだけで、性を買う側の男性の問題を完全に視野から欠落させている。また売春を労働と同一視することは、むしろ人間性を疎外された労働の側面、すなわち、自己を労働力商品として全面的に資本家に委ねるという労働のあり方に売春を類比することである(斡旋業者に雇われ搾取される売春労働者)。また、性的リベラリズムは、性的自己決定−自己責任の論理を強調することによって、実際には売春で傷ついている女性の内面を問題化することを妨げている(182)。さらに田村は言う。「性的リベラリズムは、解剖学的差異に由来する不均衡と経済学的不均衡を故意に無視しているのではないだろうか。女性は、意に反してペニスを挿入されることがありうる(強姦されうる)点において、男性よりも圧倒的に不利である。また、たとえ合意の上の性的行為であっても、性的に高まっていない状態でペニスを挿入されると、女性の膣粘膜は傷つき、激しい痛みが発生する」(181)。女性が男性を強姦するという逆の行為は、物理的には可能でも、非常に難しいという点で、厳然たる男女の非対称が存在している。この非対称性は、自由な人格としての男女の合意にもとづく対等な契約の中にも、ずっと残り続ける(夫婦間における強姦罪の是非)。ここには、小泉論文の中でレズビアンが主張した「男女間の性行為そのものの本源的かつ一次的な不平等性」があるのである。


田村は、性における男女の「解剖学的差異に由来する不均衡」を正面から見据えた上で性の倫理を打ち立てようとする。彼女は、一部の憲法学者が提案している「性的人格権」という新しい概念を評価しながらも、その問題点も指摘する。「男性の買春行為は売春者の女性の性的人格権を侵害する」という発想は、売春女性の「人格損傷」というその核心的規定の内実が不明確であるために、売春女性をいわば未熟な子どものようにみなして、保護と管理の下に置いて、従属させる思想と区別がつかなくなってしまう(186)。性的リベラリズムが成人女性の性的自己決定権と自己責任を強調したのとは正反対の欠陥、つまり、性的人格権論は、成人女性を未熟な存在と見ることによって、その性的自己決定権を認めず、それゆえ自己責任も取れない不完全な主体とみることにつながる。では、どうすればよいのか? 田村は、性における男女の生物学的・解剖学的差異に由来する不均衡を正面から見詰め、その上に、成人女性の性的な権利を基礎付けるべきだと考える。それは以下の5項目から成る(190)。


(1) 性行為の最終決定権は女性にある。(最終決定権)
(2) 性行為の女性の側の決定権は、その都度の行為のたびに発動される。結婚は無条件の性交権を夫に与えるものではない。(都度決定権)
(3) 性行為は女性の側から途中でも破棄できる。いったん始めたからには最後までやらせろという男性の権利はない。(中断権)
(4) 妊娠、性感染症などのリスクに対する、男性の側の配慮義務。
(5) 男性は自分の性的快感獲得よりも女性の性的快感獲得を優先すべきである。


女性の側のこれだけ詳細な権利規定が必要なのは、性行為においてはもともと女性の側が大きな身体的ハンディキャップを負っているからであり、男性の側がそうした女性の身体的ハンディを行為によって補償することによって、初めて男女の対等な人格的関係が可能になる。これは女性を未熟な子供とみなす男性優位のパターナリズムではない。女性は未熟なのではなく、原理的な非対称性のもとに置かれている存在なのだ。小泉論文風に表現するならば、男と女という非対称の「受肉」の「原罪」を運命として引き受けながら、そこに非暴力の対等な男女関係を築こうとする人間的な叡智なのである。田村は言う。「(1)〜(4)は性的行為に伴うリスクから女性が守られるために必要であるが、(5)はおまけのようなものではないかと言う人がいるかもしれない。だが筆者は、これらのうち(5)がもっとも重要であると考える。なぜなら(5)を実行する男性ならば、(1)〜(4)の条件は当然満たされているはずだからである。女性側のハンディを是正するためのこれらの5条件は、これまで満たされないことがあまりにも普通だったので、あからさまな暴力や強制がない限り、うやむやにされても女性側はその不平等性に気づかなかった」(191)。


売春批判の根源的論理も、女性のこうした身体的ハンディの前景化によって得られる。「成人女性の自己決定権にもとづく性売買がよくないのは、性的行為における女性側のハンディに付け込んでいるからである。ハンディを是正するための5つの条件が満たされていない状態でも、それを、自己決定にもとづく商取引という見せ掛けのものに正当化しているからである」(192)。「性の自己決定とは、性的行為を共にする二人がそれぞれ「自己決定―自己責任」を引き受けるという話ではなく、「相手が自分で決められるようにサポートする」という他者への責任の話なのである。そしてハンディを負う側に対して、ハンディのない側は、より一層の責任を負う。これは個人と個人の間に力関係がある場合に、つねに当てはまることではないだろうか。強い側が弱い側のハンディに付け込まず、むしろ弱い側の自己決定をサポートすること、このようなルールは、非暴力の基礎となるのではないだろうか」(193)。


田村の議論は、「男女間の性行為そのものの本源的かつ一次的な不平等性」と向き合うという点で、レズビアニズムの声に耳を傾ける小泉論文と深く呼応し合っている。リベラリズムに安易に寄りかからない点も、両者に共通する。小泉義之の論文は、どこまでも甘言を弄さず、その無愛想で剛直な物言いによって、かえって彼の思想における深く人間的なものを我々に感じさせる。田村公江の論文と合わせ読むことによって、それがより明確に見えてきたと思う。[終り]