演劇版『神曲・煉獄篇』

charis2009-12-20

[演劇] ロメオ・カステルッチ『神曲・煉獄篇』 世田谷パブリックシアター


(写真は昨年のアヴィニョン演劇祭のもの。右は、巨大な植物の夢を見る少年の心象風景。下は少年の自室とベッドを整える母。少年の横のおもちゃロボットは巨大化する。夢か、現実か、それとも家庭内暴力の隠喩か。) 

そもそも「煉獄」は、聖書にほとんど記述がなく、プロテスタントはその存在を認めない。ダンテの原作では、煉獄の人々は、「好色」「怒り」「嫉妬」「高慢」「浪費」「怠け」「大食」などの罪で責められているが、この程度のことは誰にでもあるのだから、咎められるほどの罪とも思えない。煉獄にいる人々は、地獄に比べると著名人は少ないのだが、エウリピデスアンティゴネ、イスメネなどがなぜ煉獄にいるのか、その理由もよく分らない。要するに「煉獄」というのは、かなり無理筋の概念なのだ。


さて、カステルッチの『煉獄篇』は、どういうわけか家庭劇になっている。エリートサラリーマンの父、若く美しい母、弱々しい息子の三人からなる、裕福な家庭だ。母と息子のちぐはぐな夕食、自室でTVを見る息子、父の遅い帰宅などが、小津の映画のように、とても静かに進行する。人間の動きがゆっくりで、事件らしいものは何も起きないので、観客の意識は、舞台に何か小さな変化は起きていないだろうかと、意識を研ぎ澄まして舞台を凝視する仕掛けになっている。だが、父が「カウボーイ遊びをしよう」と言って、二階の息子の部屋へ上がった後、悲鳴のような声が聞こえ、やがて、服の乱れた父と、少し後には、やはり服の乱れた息子が、二階から階段を下りてくる。どうやら父が息子に暴力をふるったらしいのだが、真相はまったく分らない。仕事がうまくいっていないらしい父のストレスゆえの暴力かもしれない。ピアノの前に座った父は深くうなだれ、やがて息子は父の膝にのって甘える。(↓写真右)


だが、この暴力は深刻な何かをもたらしたようだ。巨大な植物が乱舞するのを眺める息子は、植物の間から現われた父(↑写真中央)を拒絶して去る。植物乱舞の大イメージが終わると、今度は、数十年後の光景に変わる。父は、すっかり衰えた老人となり、体もよく動かないが、息子は長身の成人となり、威圧するように父を見下す。床を転げ回って苦しむ父の体に、息子は覆いかぶさって復讐する(?)ように見える。しかし次には、息子もまた、苦しんで床を転げ回る。エディプス的葛藤が繰り返されるということか? 電子音を交えた不快な暴力音が耳をつんざくように客席に鳴り渡り、舞台には不気味な黒い液体のようなものが透明な回転円盤を満たしてゆく。そして終幕。私には、パンフレットに書かれているような、煉獄で「魂が浄化される」物語のようには感じられなかった。


カステルッチは、「煉獄」と「地獄」は本質的に似たようなもので、あまり違わないと考えているようだ。どちらの舞台も、光と闇の配合が絶妙に美しく、こういう"硬質で冷たい美"が彼の持ち味なのだと思う。音楽と映像の使い方も卓抜で、少年と父の和解のように見える場面では、プリペイドピアノ(?)のような美しい旋律が流れ、植物乱舞や暴力的復讐の場面の不快な電子音のシャワーと対照的だ。闇が深ければ深いほど、一条の光が限りなく美しい。これが、「地獄」であり「煉獄」であり、現世の姿なのだ。「救い」は基本的には存在しない。とすれば「天国」もまた似たようなものなのだろうか。(急用で『天国篇』に行けなくなったのが残念)。


You Tubeがありました。アヴィニョン演劇祭やバルセロナ演劇祭のもの。どうやら天国は闇夜で水浸しの所のようです。↓
http://www.youtube.com/watch?v=63tVI2odB6A&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=LOv3QsyJG2I
http://www.youtube.com/watch?v=gnpQSo-MUWU&feature=PlayList&p=FF3246D6442CA8A9&playnext=1&playnext_from=PL&index=6
http://www.youtube.com/watch?v=-EB8A51mn9s&feature=related