別役実『象』

charis2010-03-15

[演劇] 別役実『象』(深津篤史演出) 新国立劇場・小H


(ポスターと舞台より。原爆症の男(大杉漣)と妻(神野三鈴)。おにぎりの食べ方にこだわるこのシーンは傑作。舞台全体に敷き詰められた何千枚もの古着は、原爆の死者たちの隠喩か、それとも生き残った者たちか。戯曲にはない演出だが、荒廃と滑稽さを醸し出している。)

『象』は1962年4月に早稲田の学生劇団「自由舞台」によって初演されている。早大在学中の別役実24歳の作品。原爆症に苦しむ被爆者を描いた劇が50年間まったく古びていない。まるで今日の我々自身がそこにいるかのように新鮮だ。私は別役作品は『マッチ売りの少女』しか見たことがないのだが、『象』はこの50年間に何度も再演されてきたという。演劇の力というものをあらためて感じさせる力作だ。


物語は、原爆症に苦しみ、やっと立てるくらいの男が病院のベッドで暮らしている。彼は、隣町にリヤカーで乗り付け、裸になって自分の背中一杯に広がったケロイドを群集に見せ付け、拍手喝采をしてもらうことを夢見ている。この妄想が彼の生きがいであり、彼はそのためだけに生きている。かつて彼は、原水爆禁止大会の演壇で背中のケロイドを見せたことがあり、その時誰も拍手をせず会場が凍りついたことを恨んでいるが、この話も妄想なのかもしれない。病室には、毎日来る妻(被爆者ではない)の他、この男の甥(被爆者)、看護婦(被爆者)、イヤーな感じの奇妙に馴れ馴れしい医者(被爆者ではない)などが登場する。彼らと病人の妄想男との会話は、ことごとくズレてしまって滑稽なものになるのだが、男の生きたいという必死さと強がり、やはり被爆者である甥や看護婦の絶望と切ない嘘が、我々の胸を締め付ける。天然ボケ系の妻との屈折した愛情の遣り取りも、切ない。結局、妄想男は、隣町へのケロイド見せを決行しようとして病院を脱走しようとするが、果せずに、すぐ病室に戻ってくる。だが、リヤカーが迎えに来たので男は再び決行しようとして、止めようとする甥ともみ合ううちに、手にした剃刀で怪我をして(?)、男は死ぬ。死体は、リヤカーに乗せられて、隣町へ向う。「誰かに殺される」という妄想で自分の存在証明を見出した男の夢は、思わぬ偶然によって現実のものとなり、終幕。


この作品は、原水爆禁止運動のような政治運動には回収されることのできない、被爆者個人の複雑な感情を描いている。妄想男が繰り返す、「何でそんなに俺の目を見詰めるのか!」という怒りは、他者の探るような眼差しにいつも晒されている病者の意識を率直に物語っている。何らかの意味の「他者による承認」がなければ、我々は生きられない。そうであればこそ、身近な親しい他者の「探る眼差し」には深く傷ついてしまうのだ。『象』で描かれている人間の苦しみは、きわめて普遍的なものがあるだろう。「誰かに殺されたい」と願う妄想男は、リストカットによって他者の承認を求める現代の少女たちにも通底するものがある。だが、この作品の真に優れたところは、人間の受苦を“不条理な笑い”として表現した点にある。プログラムノートから、別役実自身の言葉を拾っておこう。


>笑うよりしょうがない。笑うことだけが批評であって、浅ければ言葉で批評できます。言葉で批評できるのではなく、笑うよりしょうがない人生の出来事をいかに劇的に作り上げるか。・・・それこそが不条理劇だと思う。もっともナンセンスな笑いが純度の高い完成だと思います。チェーホフカフカブレヒトベケットという系譜がありますが、笑うよりしょうがないような出来事をどれだけ見つけ出せるか・・・。


アンドレ・ブルトンの「ミシンと蝙蝠傘の出会い」というのは、まだ知的ナンセンスなのであって、日本の「ひょうたんなまず」(ひょうたんでなまずを取る)の方が不条理です。・・・ゆくゆくは『象』も喜劇になっていくと思います。