風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』(1)

charis2010-04-09

[読書] 風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』(岩波新書、3月19日刊)


(写真は、古代ギリシアの女性詩人サッフォー。「レズビアン」という名称はサッフォーが住んだレスボス島に由来する。医学用語として20世紀初頭からあるが、同性愛者解放運動の中で使われるようになったのは、1970年頃から。本書p39)


小冊子だが、歴史と論理がバランスよく記述されている。同性愛の問題というのは異性愛者からはなかなか見えにくい非対称性があり、なぜそうなのか、それがどのような問題を引き起こしてきたのか、よく分るように書かれている。もし仮に、我々が、「異性愛」「同性愛」「両性愛」のどれとも違う完全に外部の視点に立つことができるならば、三者のそれぞれについて客観的な記述と理解が可能かもしれない。だが、そうではないのだ。異性愛の人々は、自分が「異性愛者だ」ということを特に意識しないのが普通だろう。「私は異性愛者です」とカミングアウトする機会もほとんどない。異性愛とは異なる同性愛という「鏡」に映し出されたときに初めて、異性愛が一つの「領域」として浮かび上がる。本書は、そういう本である。


著者はともに同性愛者である学者。私には初めて知ることも多く、とても勉強になった。例えば、「ホモセクシュアル」「ゲイ」「レズビアン」などの用語が広く使われるようになったのは、ごく新しいことで、このような名称を認めさせること自体が、同性愛への差別との戦いの中で同性愛者が勝ち取った成果なのである(p38f)。ある事象を呼ぶ「名前」というものは、決して中立的ではなく、最初は多数派の側からの「蔑称」のようなものしかない中で、あえて中立的あるいは肯定的な名称を新たに創出し、しかもそれを流通させなければならない。それはなかなか困難な過程であった。というのも、同性愛という存在が認知されていない状況では、違いのあるものも似たようなものとして一括りにされ、混同されたままに放置されているからである。


たとえば、日本は同性愛には「寛容な」国だとよく言われ、昔の「男色」などが例に出されることが多い。しかしそう単純な話ではないのだ。現代の「ゲイ」という概念は、男性同士の対等な関係を意味するのだが(本来は、「ゲイ・メン」「ゲイ・ウィメン」と男女両方に使われた、39)、昔の日本の「男色」は、成人男性と年少男性(たとえば「小姓」であったり)との間に上下関係があった(95)。そういえば、プラトンにたくさん出てくる古代ギリシアの「少年愛」もそうである。一方、女性同性愛は、存在そのものが歴史の中で隠された状態に置かれ、一般的な「呼称」もなかった。そもそも名前がなければ、そのようなものとして呼ばれる機会もないわけで、人々に広く知られることもない。あるいはまた、1969年、同性愛者がよく使うニューヨークのバー「ストーンウォール・イン」を弾圧した警察に対して、二千人の同性愛者たちが棍棒武装して警察部隊と闘った事件は、「ストーンウォール事件」と呼ばれ、同性愛者解放に大きく寄与した。ところが、本書によれば、警察に抵抗した人々には、「女装者やドラアグクィーン(ナイトクラブやディスコなどで派手な女装をしてパフォーマンスをする人)、いまで言うトランスジェンダーの人々」もたくさん混じっていた。「少なくとも当時はトランスジェンダートランスセクシュアル、同性愛者という明確な区分がなく、みな同じような空間に存在しており、異性愛規範に対して抵抗してもいたのだろう」(172)。つまり、同性愛と性同一性障害の違いがよく知られるようになったのは、最近のことなのである。


同性愛は、かつては(イスラム教では現在も)神の創った自然に反する「悪」として犯罪と同じ「処罰の対象」であったが、19世紀後半からは「病理」「変態性欲」として伝染病のような「予防・治療の対象」とされた(100)。しかし、どちらも異性愛こそが「自然」であり、同性愛は「不自然」だという規定である。そこで、「犯罪」→「病理」→「脱病理」の試みとして20世紀末に登場したのが「性的指向sexual orientation」という指導概念である。「性的指向」とは、欲望を向ける相手の差異として、「異性愛」「同性愛」「両性愛」の三者を対等に扱うものだ。「性的嗜好sexual preference」が自由な選択を許すのに対して、「性的指向」は自分に選ぶ自由がない点が異なる。


だが、これで問題が解決したわけではない。例えば、「性同一性障害」は手術による性転換という「治療」が可能な「病理」だから、一般社会の理解も得やすいが(164)、同性愛は同様にはいかない。同性を愛してしまう自分に気づいた同性愛者は、自分の体を反対の性に換えなければならないのではないかと悩むことが少なくないという(169)。「セックス/ジェンダー性的指向性自認」という根本概念の意義と問題を論じる第5章「性的マイノリティとは何か」は、30頁弱の短い章だが、中身は非常に濃い。しかしそこを読むと、同性愛と性同一性障害との関係には、デリケートで難しい問題が伏在していることが分る。性同一性障害においても同性愛においても「異性愛規範」が強力に機能していることがよく分る優れた論述だが、短いだけに、当事者にとっては舌足らずに感じられるかもしれないし、異論もありうるかもしれない。その点については、もう少し考えてみたい。[続く]