風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』(2)

charis2010-04-11

[読書] 風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』(岩波新書) その2


第5章「性的マイノリティとは何か」では、同性愛と性同一性障害の関係をめぐる難しい問題が論じられている。「心の性」(=性自認)と「体の性」が一致しない性同一性障害に対しては、手術によって性転換し、戸籍の性別変更を認める特例法も成立した。著者は事態が大きく進展したことを次のように理解する。


性同一性障害は医学の問題として提示され、治療の対象として、いわゆる「性同一性障害」が「病」であるとみなされるようになったのだ。これは医療の側の必要性というよりも、性同一性障害をもつ人自身の要請から生まれてきたものでもある。「体の性」と「心の性」が不一致であることによって生じる心理的負担や生活上の困難を、外科手術によって除去する医療行為の対象と認識されるようになってきた。これは、同性愛者が運動のなかで主張してきたような、「同性愛は病気ではない」という語り方とは正反対の説明の仕方である。(p164)


同性愛を「病気」や「変態性欲」などのような「病理」とみなす見方を克服するために大きな支えとなったのが、「性的指向」という基本概念である。人間は、自己の性的欲望を異性に向けることも、同性に向けることも、両性に向けることもありうる存在であり、それは個人の意志を越えた価値中立的な根本事実として受け容れなければならない。このような理解を可能にするのが、「性的指向」という中立的な概念なのである。正常/異常という二項対立はそこにはない。そして同性愛は、ミルの他者危害禁止則からしても、誰にも害を与えないのだから、「悪」ではありえない。だが、「性的指向」という概念は、脱病理化の大きな支えであったにもかかわらず、あるいは、脱病理化を支えるからこそ、そこに新しい問題を引き起こすのである。著者によれば、「性的指向」によって同性愛を説明すると、二つの問題が生じる。


(1)たとえば、男性の同性愛者が異性愛の男性に対して「私は男性に対する性的指向をもっている」とカミングアウトすると、相手は「私にはその気はないよ」と答えることがよくある。カミングアウトした同性愛者としては、「あなたが好きだ」と言ったわけではなく、一般性のレベルで自分の性的指向を述べたのに、相手は自分への個別的な愛の告白と受け取ってしまうのだ。この奇妙な行き違いは、異性愛者には「私は異性に対する性的指向をもっている」というカミングアウトがそもそも存在しないという非対称性にもとづいている。異性に対しては、「あなたが好きだ」という個別的な愛の告白しか存在しないのであり、一般性のレベルで異性に対する性的指向を語ることはない。だから、同性に対する性的指向が一般性のレベルで語られるということが、異性愛者にはよく理解できないのだ。(168)


(2)もう一つは、さらに深刻な問題である。「同性愛者の中には、自分が同性に対して性的な意識を抱いていることに気づいたときに、自分の体の性を変えなければならないのではないかと感じた人が少なからずいる。つまり、同性を好きになったら異性の身体に換えなければならないと感じるのだ」(169)。要するにここでは、性同一性障害者が、手術によって性転換することを望むのによく似た、「自分の体の性を変えなければ」という「治療」指向が再び顔を出しているのだ。だがまったく同じではない。性同一性障害の場合は、たとえば「心は女性」である自分は男性を性的に指向するから、自分の男性としての身体が受け容れられず、手術によって女性に転換したいと願う。同性愛の場合は、「心も女性」である自分は同性である女性を性的に指向するから、自分の女性の身体が受け容れられずに、男性の身体に変わらなければと願う。


同性愛の当人が、自分の体の性を変えなければと感じるとすれば、それは、自分の体の性を受容できず、否定的に捉えているということである。それをあえて「病気」とは呼ばないにしても、体の性を変えることを求めることは、何らかの「治療」を求めることである。とすれば、この事実は、「同性愛は病気ではない」という主張と、どのように整合するのか。著者はここに、同性愛者をも深く支配している異性愛規範の強さを読み取る。(169)


>「性的指向」という考え方が、異性愛との同等性を強調するために、ある種のジェンダー規範からの「逸脱」を認めない、あるいは見ないようにしていることも関係しているのではないか。・・・つまり、性的指向という概念では、「男として男に性愛を向ける」「女として女に性愛を向ける」という「指向性」のみに焦点が当てられるために、「女の子っぽい男子」や「男の子っぽい女子」というような、「指向性」とは直接には関係のないトランスジェンダーに近い人は、「正常性」の枠組みから除外されてしまうのである。(171)


脱病理化のための強力な基本概念が、今度は別の「逸脱」を「病理」とみなす傾向をもたらす。つまり、問題の解決それ自体がが新しい問題を生み出すという事態と、著者たちは向き合っているのだ。