サファイア原作『プレシャス』

charis2010-05-04

[読書]  サファイア『プレシャス』(東江一紀訳、河出文庫)


(写真右は、映画『プレシャス』発表会。右から、原作者のサファイア、監督のダニエルズ。写真下は作者、原作の『Push』、そして邦訳)

映画『プレシャス』を観て、原作を読みたくなった。アマゾンですぐ買えたが、便利になったものだ。原作は、アメリカの黒人女性、詩人のサファイア(1950〜)が書いた初めての小説で、1996年に『プッシュ(Push)』という題名で刊行された。2年後に同じ題名で日本語訳も出た。サファイアは『プッシュ』の映画化を拒否していたが、やっと許諾したダニエルズ監督の映画を見て絶賛したといわれる。映画は2009年の試写の際は『プッシュ』というタイトルだったが、ほとんど同名の他の映画がたまたま現われたので、混同を嫌って題名を『プレシャス』に変えた。要するに、マイナーなインディーズ系の映画だったのだ。公開がスタートした2009年11月には、全米でわずか18館だったが、評判を呼んで、たちまち600館に増え、いろいろな賞も受賞した。それで原作も『プレシャス』と改題して再版された(英語版は2010年1月、邦訳は4月)。日本では、東京で3館、埼玉で1館というように細々としか上映されていない。


原作は、少なくとも形式の面では、映画とは大きく違っていた。というのも、本書は、プレシャスが女性教師レインと出会い、レインが読み書きを教え始めてから、二人が書いたものをやりとりし、プレシャスの言語能力が高まってゆく過程を丁寧に追った、いわば二人の往復書簡集だからである。いや、より正確には、本書は、読み書きを覚え始めたばかりのプレシャスが、一人称で語り、書く、初々しいエクリチュールなのである。作中でレズビアンとされているレインは架空の人物だが、サファイア自身がレズビアンであり、長い間マンハッタン・ハーレム地区のフリースクールで子供たちに読み書きを教えていたのだから、レインにはサファイアその人が大きく投影されているだろう。そして、映画のインタビューでサファイアが語っているように、プレシャスもそれに近い女の子が実在したようだ。本書で何より印象的なのは、16歳から二年間にわたってレインから読み書きを習ったプレシャスの成長ぶりである。普通の子どもなら、聞いたりしゃべったりする言葉に、4、5歳ころから、文字や文の読み書きの学習が加わり、両者が相伴って言語能力が高まってゆく。このうち後者だけが十代後半から加わるというプレシャスのような場合は、特殊なケースだが、エクリチュールの喜びがどのようにして得られ、その喜びがいかに大きく、大切なものであるか、それがよく伝わってくる。エクリチュールが人間を人間らしくすることが、レインとプレシャスの師弟愛そのものなのだ。


プレシャスが初めて絵本の文字を読めた時の会話はこうなっている。ある絵に、「A day at the shore」という語句が添えられているが、プレシャスは「shore」という語を知らず、「beach」しか知らない。いったいどう読むのだろうか?
>ミズ・レインが、いちばんさいごのたんごをさす。あたしは「すなはま(ビーチ)」とゆってみたけど、「ビーチ」にはBがあるはずなのに、このたんごにはない。ミズ・レインが「海岸(ショア)」よ。これは「海岸」という単語で、「砂浜」とほとんど同じ意味。上出来、上出来」とゆう。そいから、ねこがのどならすみたいなやさしい声で(あたし、むかしっから、ねこかいたいんだ)「全部通して読んでみてくれる?」とゆう。あたし、「すなはまのいち日A day at the beach」とよむ。ミズ・レインはもーいっぺんじょーできってゆって、本をとじる。あたし、泣きたくなる。わらいたくなる。ミズ・レインに抱きついて、キスしたくなる。ミズ・レインはあたしをいい気もちにしてくれた。あたし、いままで、なんにもよめなかったんだから」(p81)。


個々の要素を教わっても、全体の「通し」となると間違ってしまうことは、外国語習得の初心者によくあることだ。それと同様に、プレシャスもせっかく教わった文字「shore」を眼で見ながら、それを、耳で聞いてよく知っている「beach」と読んでしまった。だが、レインはそんな小さなことにこだわらず、「じょーでき!」とプレシャスを誉めるのだ。


だが、ミズ・レインは優しいばかりではない。プレシャスが苦しいときも、ひたすら「書きなさい!」と命じる。クラスの全員に日誌を書かせて、自分を表現させるのだ。この点に関しては、彼女は、誰に対しても「書きなさい!」「書きなさい!」と鬼のように厳しい。ある日、プレシャスはエイズの検査結果が陽性だった。彼女をレイプした父親から移されたのだ。絶望の淵に陥った彼女は教室でそれを報告する。
>でも、あたし、輪になった友だち見て、あたしはHIV陽性だよって言った。そしたら、みんなのべろこおりついて、なんにも言えれなくなった。リータ・ロミオ[クラスメイトの名前]、じぶんの子ども抱くみたく、あたし抱いて、あたし泣きだして、ミズ・レイン、あたしのせなかなでて、泣きなさい、プレシャス、がまんしなくていいのよって言う。あたし、今までの人生のぶん、ぜえんぶ泣いた。(142f)


だが、こんな状況でも、ひとしきり泣き止むと、レインは何事もなかったかのように、生徒たちを日誌を書く作業に追い込む。
>きょうは、書くこと、なんもない。ずうっとないかもしれない。心んなかのハンマー、今、あたしをたたいて、あたしの血、ばかでかい川みたくあふれかえって、あたし、おぼれてしまう。頭んなか、まっくら。目の前のばかでっかい川、とてもわたれそうもない。ミズ・レイン言う。書いてないじゃないの、プレシャス。あたし、川におぼれそうだって言う。ミズ・レイン、へんな目つきであたし見たりしないけれど、なんにもせずにすわってたら、その川おそってきて、のみこまれるわよって言う。書いたら、ことばがボートになって、向こう岸へ行けるかもしんないって。あなた、今まで全部を話したことがないって、日誌に書いていたわね、プレシャス。自分の物語を書くことで、その川をわたれるんじゃないかしら。
 あたし、それでも動かない。「書きなさい」って、ミズ・レイン言って、「つかれたよ。ほっといて!」って、あたし答える。「あたしの気もち、なんもわからないくせに!」ってどなる。あたし、ミズ・レインにどなった。こんなこと、はじめて。クラスのみんな、ぽかんと口あけてる。あたし、はずかしくて、なさけない。ほんとにばかなことしたって気もちで、いすにすわる。「ノートをひらきなさい。プレシャス」「つかれたよ」って、あたし言う。ミズ・レイン、「それはわかるけど、ここで立ち止まるわけにはいかないのよ、プレシャス。ふんばりなさい(push)」って言う。そいで、あたし、ふんばった。(143)。


この箇所の「ふんばる(push)」から、おそらく本書のタイトル「Push」が生まれたのだろう。エクリチュールは、人間が苦しみの中でなお「ふんばる」ことを可能にする。エクリチュールが人間を人間にするのだ。


PS:アマゾンからたった今届いた原文を見たら、プレシャスの言葉は、シンプルで初々しい英語で書かれている。動詞が標準用法じゃなくても、彼女の気持ちはとてもよく伝わる。以上の引用箇所を書き写してみよう。このような文章をそのまま「書く」ことは楽しい。
 I don’t have nothing to write today――maybe never. Hammer in my heart now, beating me, I feel like my blood a giant river swell up inside me and I’m drowning. My head all dark inside. Feel like giant river I never cross in front me now. Ms Rain say, You not writing Precious. I say I drownin’ in river. She don’t look me like I’m crazy but say, If you just sit there the river gonna rise up drown you! Writing could be the boat carry you to the other side. One time in your journal you told me you had never really told your story. I think telling your story git you over that river Precious.
I still don’t move. She say, “Write.” I tell her, “I am tired. Fuck you!” I scream, “You don’t know nuffin’ what I been through!” I scream at Ms Rain. I never do that before. Class look shock. I feel embarrass, stupid; sit down, I’m made a fool of myself on top of everything else. “Open your notebook Precious.” “I’m tired,” I say. She says, “I know you are but you can’t stop now Precious, you gotta push.” And I do. [p96f]