東京新聞の書評

charis2010-09-30

[読書] 渡辺由文『時間と出来事』(中央公論新社、8月25日刊)

9月26日(日)の東京新聞中日新聞)の読書欄に、以下の書評を書きました。私、中島義道氏、大森荘蔵先生など、一刀両断にバッサリ批判されていますが、なかなか面白い本でした。

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[評者]植村 恒一郎(群馬県立女子大教授)

■隠喩としての時間を論じる

 時間は古来、哲学の大きなテーマであった。アリストテレスアウグスティヌス、カント、そして二十世紀には、ベルクソンフッサールハイデガーなどが、精緻(せいち)な時間の哲学を展開した。
 しかし著者によれば、こうした哲学者の時間論は「もの」と「出来事」の区別をしておらず、時間は隠喩(いんゆ)的にしか表現され得ないことを見落としているという。
 我々は、未来の出来事が現在になったり、現在の出来事が過去になったりする「時間の流れ」を当然のこととして疑わない。ごく普通に「クリスマスがやって来た」「あの件はもう過ぎたことだ」などと言う。だがこれは、「出来事」を「もの」に見立て「もの」が空間的に自分に近づいたり遠ざかったりするのになぞらえて、時間を隠喩的に語っているのである。
 時間は隠喩的にしか語れないものであり、人間がつくり出した抽象的な概念である。とはいえ、決して空虚な概念ではなく、我々が「出来事を共有する」ために欠かせないものであり、他者と「出来事を共有する」ネットワークを築き、その中に身を置くことによって自己のアイデンティティーを自覚する。この共有のネットワークをつくるために、時間という隠喩が必要なのだ。そして時間は我々の生に意味と価値を与えるものとなる。
 以上のような「隠喩」と「出来事の共有」を核とする著者の時間論は、新鮮で読み応えがある。アリストテレス以来の大哲学者の時間論を大胆に批判するのも、なかなか刺激的だ。文化人類学発達心理学天文学など多面的に時間を論じた章は、読んでいて楽しい。
 だが、最後に素朴な疑問を一つ。もし時間が人間のつくり出した抽象概念にすぎないならば、ビッグバンから人類誕生までの間に過ぎ去った時間はどうなのか? 人類誕生以前にも時間は「実在した」のではないか?
 時間の「実在性」は、やはり難問中の難問だ。
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わたなべ・よしふみ 1954年生まれ。哲学者。2010年に東大の文学博士号を取得。

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