ヤスミナ・レザ『大人は、かく戦えり』

charis2011-01-15

[演劇] レザ『大人は、かく戦えり』 新国立劇場, 小H 1月15日


(写真右は、ヤスミナ・レザ。現代フランスの女性劇作家。原作は、2006年初演後、欧米で評判になり、トニー賞やオリヴィエ章を受賞した。日本では2008年に、原題「殺戮の神」のまま、劇団黒テントが初演している。今回は、劇団シス・カンパニー公演、マギー演出、出演は、大竹しのぶ段田安則秋山菜津子高橋克実)

自分たちの子供の喧嘩をめぐって二組の夫婦が激しくいがみ合う。普通の「ホームドラマ」とはかなり違っている。他に登場人物はなく、会話と喧嘩だけから成り立っているから、「会話劇」と言うべきか。インテリの夫婦が、最初は上品に取り繕っていたのに、話が進むうちにだんだん抑えがきかなくなり、本音むきだしに激しく罵倒し合う。喧嘩した子供の怪我をめぐって「責任」と「謝罪」の話し合いだったのが、子供や夫婦のあり方をめぐる考えの違いが次第に露わになり、それぞれの夫婦の内ゲバになり、さらには夫婦を越えた男対女の闘いに発展し、普段から抑えていた積もり積もった不満が爆発して、まったく収拾不能になってしまう。アフリカ問題の専門的著作もある知的な女性、ハーグの国際司法裁判所に出廷する敏腕弁護士の男性など、エリートの男女なのだが、いったん知性という"衣装"が剥がれると、ここまで醜態を晒すというのが見所。


フランスの話で、日本人だったらここまで"言葉で闘う"かなとも思うが、状況には普遍性があり、程度はともかく、我々だってこんな喧嘩はありうるだろう。子供同士の喧嘩で一方が怪我をするというのは、「いじめ」と同様、身近によく起こる"事件"ではあるが、処理の仕方については親の考え方もさまざまなので、双方が納得のいく解決が難しい。このドラマでは、11歳の男の子同士が喧嘩して、歯を折るなど治療が必要な怪我をするのだが、まず、子供が事態を親に正確に話したかどうかが明確ではなく、11歳の子供というのは、供述能力、責任能力という点で微妙な年齢にある。そこに親の思い込みが二重三重に重なるわけだ。怪我をさせた子供を連れてきて、怪我をした子供に謝らせようと両親は計画するのだが、そこに親が立ち会うべきかどうかで、両親たちは激しく対立する。


「家族」の公的・私的な性格という現代社会の難問がここには含まれている。国家や社会に対しては、個々の家族は私的かもしれないが、家族もまた、それを構成する個々人にとっては、一定の「公的」な性格もある。そこに親と子の間の「主体」「客体」「約束」「処罰」などの問題が絡んでくる。「家族劇」というものは、いくらでも奥行きが深いものになりうる。この上演では、原題「殺戮の神」が「大人は、かく闘えり」に変っている。分りやすいタイトルではあるが、原タイトルに含まれていた神話的・超越的ニュアンスは何だったのだろうか。役者の演技はリアルかつ迫力があったが(特に大竹しのぶ)、結果として、いかにも日本人らしい喧嘩になっている。「被造物の本性」としての自身へのイロニーや嘆きといった感じではない。