野崎綾子『正義・家族・法の構造転換』(1)

charis2011-03-26

[読書] 野崎綾子『正義・家族・法の構造転換――リベラル・フェミニズムの再定位』(2003. 勁草書房)


著者は、1971年生まれ、弁護士の仕事に携わった後、東京大学法学部大学院に戻り、助手在職中の2003年に逝去。本書は著者の修士論文を中心とする論集。ジェンダー論を法哲学の領域で展開した骨太な論稿で、若さと瑞々しさの溢れる議論の一部を紹介したい。


日本のジェンダー論はこれまで主として社会学者によってリードされ、哲学的な議論は十分に行われてこなかった。野崎綾子は、家族(婚姻+親子)を「自然的なもの」とする従来の支配的見解に真っ向から異を唱え、ホッブズ以来の社会契約論に立脚する「契約アプローチ」によって、家族を主体の自由な「契約」によって基礎付けようとする。ヘーゲル法哲学』に典型的なように、家族は「愛の原理」が支配する私的な領域であり、「契約」にはなじまないと考えられてきた。だが著者によれば、家族もまた、異なる価値観を持つ個人から成り立つ以上、自由な主体が「契約」(親子関係は「信託」)によって創り出す公的な関係の側面がある。ラディカル・フェミニズムは「[家族という]個人的なことは政治的なこと」と主張したが、著者は、家族における公的な関係は「正義の原理」に貫かれなければならないと言う。


著者によれば、我々は一人一人が「自分のより良い人生」を選択する主体であり、結婚もまたそのような選択の要素の一つである。それを明確にするには、「正義」と「善」とを概念的に分離しなければならない。どのような男女関係、親子関係が望ましいのかは、「善」の問題であり、個人の価値観によってその内容は様々に異なるから、特定の家族像を「善き家族」「あるべき家族」として押し付けてはならない。なるべく多様な善がこの世界に実現することが望ましいのであり、「それぞれの善を追究する個人の自由」こそが、最上位規範として設定されなければならない。このような価値中立的な根源的ルールが「正義」であるのに対して、「善」は、人間にとってどこまでもopen questionであり、たえざる試行錯誤によって新たに創造されるべきものが「善」であるから、そうした選択を可能にする根本ルールが「正義」ということになる。


「正義」は、人間の「本性」が「自然に」生み出すものではなく、我々人間が「このルールで行こう!」と合意して、作り出したものである。「正義」は、我々の合意、約束、契約によって創造される。たとえばカントは、「我々はなぜルールを守らねばならないのか?」という問いに対して、「我々自身がそのルールを作り、そのように決めたからだ」ということ以外には、究極の根拠はないと考えた(=「自律」「自己立法」)。自然法則とは異なり、道徳法則は、「契約」「約束」という我々自身が行う「行為」以外にその根拠はないのであって、つまり我々によって「創造」されたものであり、その意味で、道徳法則の存在は、我々の「自由」を証するものである。こうしたカントの考えは、「約束」や「宣言」という発話を分析した、20世紀の言語哲学者オースティンの"performative utterance"とも共通するものである。


野崎綾子の正義観は、ロールズの『正義論』に大きな影響を受けている。ロールズは、「無知のヴェール」(=原始契約の主体は、自分の社会的位置や能力、所有している財などについて知っていてはならない)から、以下の二つの正義原理を「演繹」した。(1)自由の平等原理。人間の自由はすべての人に平等に与えられなければならない。(2)格差原理。最底辺にいる困窮した人々を、社会は救済しなければならない。「無知」である主体は、このような正義の二つの原理に同意しないわけにはいかない。これは、歴史的事実ではなく、論理的なフィクションとしての「原始契約」である。それは以下のようなものである。


(1)もし仮に、自由が「平等でない仕方」で与えられるならば(たとえば、能力の劣った男、経済力のない男には参政権を与えない、妻帯できない等)、自分はどの位置にいるか分らず(「無知のヴェール」だから)、実は劣った立場にいるかもしれない。自分が自由を剥奪される側にいる可能性と不安は、誰にでもあるから、そうならないように、自由が平等に与えられることが万人にとって利益になり、したがって自由の平等な分配に、全員が賛成する。


(2)誰もが、生まれつきの障害、事故、病気、老いなどによって最底辺の状況に陥る可能性があるが、それは「無知のヴェール」ゆえにまだ自分に知られていないだけ。また、(1)で自由を認めることにより、人間の間での競争が生じることになるが、たとえ公正な競争であっても、勝者と敗者が生まれ、自分が敗者になる可能性がある。だから、弱者への援助義務には、自分の位置が分らない者の全員が、賛成せざるをえない。


これが、ロールズによる、「無知のヴェール」にもとづく二つの正義原理の「原始契約」である。野崎綾子において、結婚など家族の構成に関わる「それぞれの善を追究するする個人の自由」は、ロールズの(1)に相当し、自立する力のない子どもを育てる親の「信託」は、ロールズの(2)に対応すると考えて良いだろう。野崎は、アレントの「等しくないものの平等」原理によって、保守派の「男女特性論」に対抗し、また子育てという家族の課題を、親の「信託」という原理で説明する。[以下、次回]