ヌスバウム『感情と法』(2)[嫌悪について]

charis2011-10-03

[読書] ヌスバウム『感情と法』(慶応大学出版会)  (2)
(承前) 今日は「嫌悪」について。


>嫌悪感は、ほとんどの人間の生活の中に強く働いている感情である。嫌悪感によって、私たちの親密さの度合いは決まってくる。身だしなみに気を配るというような日常の決まりごとは、多くの場合この感情に基づいている。たとえば、私たちは体を洗い、排尿や排便を人の目から隠そうとし、歯磨き粉やうがい薬を使って周りを不快にさせる匂いを洗い流し、誰も見ていない時に脇の匂いを嗅ぎ、鼻糞が鼻毛について目立っていないか確認するために鏡をじっと見たりするのだが、私たちは嫌悪感に基づいてこうした日常的な習慣を身につけるのである。多くの点で私たちの社会関係を決めているのも、また嫌悪を催させるものとそれをさまざまな方法で取り除こうとする振る舞いである。嫌悪を催させる動物的なものへの対処法は、社会の習慣を生み出すものとして広く浸透している源泉である。(p91)


嫌悪感は明確な認知内容を持っている。身体の排泄物、腐敗など傷んだ食物、死体の三つは嫌悪の「一次対象」と呼ばれ、それらは進化論的起源を持つと考えられる。進化論的起源を持つというのは、これらの「一次対象」に嫌悪感を持つことが、その個体の維持と次世代の再生産にとってプラスに働いたがゆえに、嫌悪の感情をヒトは持つようになったということである。しかしながら、人間は嫌悪感を、「一次対象」だけでなく、それ以外のものにも拡張してゆく。この拡張は社会的なものであり、進化論的な起源を持っていない。このような嫌悪の「一次対象」以外のものへの拡張にこそ、嫌悪という感情が持つ固有の問題性を示している。ミラーによれば、「嫌悪」の中心概念は「汚濁contamination」にある。つまり、排泄物、腐敗した食物、死体などは、それに触れるもの(物や者)に汚れを伝染させてゆく。自分が汚染されたり、社会が汚染されると考えるのである。これが人種差別や部落差別の根底にある。ある時期のアメリカの一部では、黒人がプールで泳ぐとプールが汚染されるとみなされた。また日本の部落差別においても、家畜の解体作業や皮なめしなど動物の死体に触れることが、その職業に従事する人々を汚染させると見なされた。また、ののしり言葉(「糞っ!」「畜生!」)が排泄物や動物をストレートに言及しているのも、日本だけでなく、各国に共通して見られる現象である。


ヌスバウムによれば、嫌悪感は「身体の境界」に関係している(p113)。たとえば、口、鼻、肛門、性器、皮膚などである。そのような場所は、唾液、鼻汁、汗、排泄物、精液、月経血など動物的な分泌物が避けがたく現れてしまう場所だからだ。たとえば、唾液は自分の口中にあるときは不潔なものと思わないのに、それを外部に吐いたとたんに、汚いものとみなす。身体の境界を越えたとたんに、否定的なものになる。そのように「身体の境界」が問題になるのは、動物はその生命活動を営む限り、外部から酸素や栄養を摂取する代わりに、かならず排泄物を外部に排出するからであり、その排出の場所が「身体の境界」だからである。我々はなぜか、口、鼻、肛門、性器、皮膚などを「おぞましい」もの、「グロテスクな」ものに感じる時がある。その理由は、自らの動物的活動をそこに見出しているからである。我々は、自らの口、鼻、肛門、性器、皮膚などの汚れを神経質に恐れ、そのような場所を注意深く管理しなければならないと過剰に意識することになる。また、後で見るように、人間の性行為もまた口、鼻、肛門、性器、皮膚、毛髪などが関っており、「わいせつ」概念やポルノグラフィー、同性愛などに関る「嫌悪感」という問題を引き起こしている。


>私たちは、自分たちと人間以外の動物、もしくは自分のたちと自分たち自身の動物性との間の境界を取り締まることに関心を寄せている。・・・涙は人間の身体の分泌物だが、嫌悪されていない。それはおそらく、涙は人間独特のもの考えられ、それゆえ私たちが動物と共有するものを思い起こさせないからである。対照的に、排泄物や鼻汁、精液、その他の動物的な身体的分泌物は、汚濁をもたらすとみなされる。・・・そして私たちは、そういった身体の分泌物と提起的に接触する人々を、汚染されているとみなす。・・・嫌悪感の核心は(人間を含めた)動物の老廃物である。私たちはそのような老廃物を、自分を劣化させるものと見なす。・・・ミラーが表現するように、「究極的に、すべての嫌悪感を生じさせる基盤は私たちなのである――つまり、私たちは生き、そして死ぬが、生から死への過程は汚らしいものであり、自らに対する疑念を呼び起こし、隣人を恐怖させるような物質や臭いを発生させるのである。(p113f)


ここで指摘されているように、我々の排泄物は、我々自身が死へと向っていることを示すものでもある。というのは、自己の肉体から排出された老廃物を、自己を劣化させるものとみなすことは、当の老廃物自体が、自分の肉体の一部だったわけだから、それは、自己の肉体そのものが不可避的に老廃物に転化することを意味するからである。死とは、我々の肉体そのものが一直線に腐敗することである。「死=肉体の腐敗」という観点から見れば、排泄物や分泌物は、肉体が腐敗するする姿を、日々眼前に先取りして、小規模に実演しているものとみなすことができる。自己の排泄物や分泌物を嫌悪し恐れることは、自己の肉体の腐敗=死を恐れることと根底で繋がっている。そしてそれは人間の尊厳を無残に打ち砕く、究極の運命でもある。そして、そのように自らの身体の腐敗と死を直視することは、我々にとって苦痛であり、できれば眼を背けることができればと願う。つまり嫌悪感は、「現に自己であるところのものから距離を取ろうとする」(p262)我々自身の無意識の働きとも考えられる。嫌悪には、死=動物の運命からできれば逃れたいという、深い自己欺瞞が含まれている。嫌悪とは、人間が死と向き合う感情であり、人間存在の核心に触れる感情なのである。


>嫌悪の感情とは、根深く自己欺瞞的な感情であり、その本質からし自己欺瞞的なのである。というのは、その作用は、日常生活における向き合いがたい私たち自身の事実を隠してしまうからである。(p263) 


嫌悪は我々自身の動物性から目を背けようという自己欺瞞的な要素が含まれる感情であり、それを他者に投影した場合には人格を否定するという非常に深刻な破壊的機能がある。黒人やユダヤ人などに対する人種差別、日本の部落差別、同性愛者差別、広範に見られる女性嫌悪(=ミソジニー)、そして子どもたちの「いじめ」の理由づけ、政治的立場を異にする少数派への罵倒(「ゴミ」「バイキン」等々)、罵り言葉(「糞っ」「ムカつく」「キモい」)など、嫌悪の感情は、他者に向けられ、他者に投影され、他者を傷つける。したがって、嫌悪の感情は決して公共的行為の基礎となってはいけない感情であり、その自己欺瞞的性格を深く追究しなければならない感情である。


嫌悪の感情の持つ自己欺瞞的性格こそ、この感情が行為の根拠として本質的な問題を引き起こす理由である。人間は、自分の中の醜いものを他人になすりつけて、自分が無垢であるかのように思いたがる。たとえば、「嫌悪」は、同性愛を刑罰の対象とする論拠になったばかりではなく、誰にも危害を加えない何かを処罰あるいは禁じる論拠になってきた。「わいせつ禁止」もまた「嫌悪」を論拠としている。なぜ、誰にも危害を加えないのに処罰や禁止の対象になると考えられるのか。これは性やポルノグラフィーとも関連する論点なので後であらためて論じる。[続く]