川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

charis2011-12-09

[読書] 川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』 講談社 ’11.10.12刊


1976年生まれの話題の新進作家の近作を読んだ。私はこの一冊しか知らないのだが、若い女性のとても切ない純愛が、限りなく美しく描かれているのに驚いた。ほとんどありそうもないと思われるくらいピュアな恋の物語。恋愛経験もないとても地味な35歳の女性が主人公の「わたし」。偶然知り合った高校の物理学教師の58歳の初老男性「三束(みつつか)さん」に片思いになる。彼から「光」の物理学について教えを受ける。酒を飲まないと男の人と話すことができないくらい内気な「わたし」は、悶々と苦しんだあげく、彼の誕生日にお祝いの会食を企画する。食後、夜道に立つ二人のどちらからともなく、手が触れ、「わたしたちは指と指の背をふれあわせたまま、動かなかった」(p276)。彼が指先を握り返してくれる。思わず、「三束さん、わたしは三束さんを、愛しています」と告白してしまう。みるみるうちに涙が溢れ、顔をぐしゃぐしゃにして泣いてしまう「わたし」。「彼は何も言わずに、わたしに手をにぎられたまま、わたしのまえに立っていてくれた」(p278)。口づけがあったわけでもない。それで別れて、物語は終幕に。彼から手紙がきて、彼は高校教師ではなかったことが分る。


p275〜6は、告白の直前、本書でもっとも美しい箇所なので、引用してみよう。
>「風が吹いていますね」わたしは手で空気をかきまぜるようにして言った。「夜なのに、こんなに影がはっきりとみえるんですね」/「そうですね」と三束さんは言った。おおきな風がまたひとつ吹いて、三束さんの耳のうえの髪が額に覆いかぶさった。/「三束さん、ここには何もないんでしょうか」わたしは三束さんの顔をまっすぐにみて言った。/「ここというのは?」/「ここです」とわたしは三束さんと自分の体のあいだを手で示して言った。/「色々あります」と三束さんは言った。「手を動かすと、こう、何か感触があるでしょう?」/「あります」とわたしは両手をぐるぐるさせて言った。/「あるでしょう」と三束さんも手で円をかくように動かした。「空気の移動みたいなものを、感じませんか」/「感じます」とわたしは言った。/「粒子に触れてるんですよ」/「粒子に」とわたしは高い声で言った。/「そうです。粒子に」/わたしと三束さんはそのまましばらくのあいだ、上下左右に両手を動かしていた。・・・それからまたおおきく風が吹いた。ひとつの影のなかで、わたしたちはみつめあった。


二人を隔てている空間の「ここ」は、無のように見えるが、物理学的にはいろいろな粒子で満ちている。両手をぐるぐるさせて粒子に触れる二人。何という美しい光景だろう!


作者は、身体の触れるきわめて微細な表現に卓越している。プルーストは、お菓子の味や香り、花の感触などを実に巧みに記述したが、川上未映子も、身体に触れる感覚の描写が上手だ。たとえば、「わたしたちはお互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら、わたしは三束さんの記憶につまさきをそっと入れてゆく思いだった」(p204)。


散文詩のような美しい純愛物語だが、しかし本書は、小説の技法という面で、まだ欠陥を抱えている。「わたし」と「三束さん」を抽象的に描くためかもしれないが、それ以外の登場人物があまりにも類型的に描かれすぎているからだ。とりわけ「わたし」と同い年の親友の女性「石川聖」は、本書で重要な人物なのに、週刊誌などにありがちな紋切り型に造形・表現されているので、いかにも低俗な女性であることしか分からず、彼女のディテールと個性が描かれていない。他にも「わたし」の周縁の人物が何人か出てくるが、高校の同級生「水野くん」を除いて、どれも退屈でつまらない。これは小説として、まずいことだろう。類型的な人物というものは存在するが、それは、その人物を類型的に表現してよいということではない。フロベールプルーストのように、脇役の個性やディテールをも絶妙に表現し得たならば、本書はもっと傑作になっていただろう。