松村禎三『沈黙』

charis2012-02-19

[オペラ] 松村禎三『沈黙』 新国立劇場・中劇場


(写真右は、嘆くロドリゴ司祭。「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりにも碧いのです」(長崎の遠藤周作文学館「沈黙の碑」の言葉)。写真下は、海中の磔刑に処されたモキチの昇天と、狂乱して死ぬ恋人オハル(前列中央))

遠藤周作原作、松村禎三台本・作曲、宮田慶子演出、下野竜也指揮、東京交響楽団プーランクカルメル会修道女の対話』と同様、殉教を主題にした重く・苦しいオペラだ。だが、本作はある意味ではプーランク以上に、救いの無い、過酷な内容ではないだろうか。というのは、事態の展開はこれ以外ではありえなかったという必然性を強く感じるからである。ザビエル来日(1549)、日本人奴隷貿易に怒った秀吉の伴天連追放令(1589)、徳川幕府キリシタン禁止令(1612)、島原の乱(1637)という流れをみると、この物語の展開する1644年の長崎では、どちらの立場の人間の行動と運命も、これ以外にはありえなかっただろう。まず、日本の近代国家統一の時期とキリスト教伝来、そして西洋列強の大航海時代と植民地進出がかち合ったという歴史の事実がある。17世紀初頭には数十万を数えたといわれる日本のキリシタン人口に対して、日本の支配者たちは、植民地支配を恐れてキリスト教禁止と鎖国へと舵を切った。この判断が恣意的なものではなかったことは、原作『沈黙』にも描かれているように、徳川幕府ポルトガル(旧教)とオランダ(新教)の政治的対立を巧みに利用したことからも分る。


『沈黙』の主要な人物は、日本へ秘密に潜入した若きロドリゴ司祭、その師でありイエズス会の希望の星であったフェレイラ教父(彼は弾圧に負けて「転び」、棄教した。同じ道をたどった実在の人物に、イエズス会のハビアン修道士がいる)、そして、長崎でキリシタン弾圧の総指揮を取る長崎奉行井上筑後守、彼は元キリシタンという設定だ。一時期、キリシタン大名もたくさんいたのだから、日本の支配層にもキリスト教は浸透していたわけだ。


『沈黙』ではやはり、ロドリゴが囚われた後、この三人の神学的な対決が見せ場だと思う(アヌイ『ひばり』でも、ジャンヌ・ダルクと異端審問官の対決が凄かった)。拷問される日本人キリシタンたちを前にして、それでもロドリゴが棄教を拒否するとすれば、その根拠は、フェレイラが鋭く指摘するように、「自分の救済」しかない。「お前は彼らより自分が大切なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」(新潮文庫版、p264)。このフェレイラの科白は、『沈黙』全体の核心である。そして、かつてフェレイラがそうであったように、ロドリゴに抗するすべはないだろう。彼が転ばずに頑張れば、眼前の5人の日本人は死ぬ。そして同じ試練は今後も何度でも繰り返されるだろう。いつかは、必ず彼が負ける。


井上筑後守が言うように、今も潜伏する日本人キリシタンは、数は多くても、自力では信仰を維持できない。かれらは「立ち枯れて」いくしかない。だから、日本人キリシタンを摘発するのではなく、「潜伏パードレ」を捕らえて転ばせ、それを民衆にアピールするのがもっとも効果的なキリシタン対策なのだ。


井上の発言は十分に筋が通っている。日本の近代国家確立と独立を守るために、キリスト教の存在は障害なのだという政治的理由のほかに、元キリシタンの彼は、日本の特殊な精神風土のこともロドリゴに語る。民衆の意識のレベルでは、キリスト教の「デウス」は日本伝来の「大日如来」と混同され、違ったものに変質してしまう、と。最後に井上は棄教したロドリゴをねぎらって言う。「パードレは決して余に負けたのではない。この日本と申す泥沼に敗れたのだ」。・・・「<やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう>、そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息をもらした。<日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ>、奉行の溜息には真実、苦しげな諦めの声があった」(p290)。この最後の言葉は、元キリシタンの彼の声かもしれない。そして、この声は、見当違いとも言えないかもしれない。21世紀の今日でも、日本はキリスト教徒の人口比率が極端に低い国であり(0.8%)、アジアでも、中国、ベトナムインドネシア等以下である↓。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9460.html


オペラでは、原作にないオハルというモキチの恋人を登場させ、オハルの美しいソプラノを聞かせる。オハル役の高橋薫子は、私がこれまで何度も聴いたことのある人だが、全体にオケが現代音楽風の暗めの旋律を響かせる中、一条の光が差すようによく通る声が印象的だった。