シェイクスピア『から騒ぎ』

charis2012-08-24

[演劇]  シェイクスピア『から騒ぎ』 (埼玉芸術劇場小H)


(写真下2枚は学生役者たち、みな若々しい。左から、ヒーローとクローディオ、次は、左からレオナート、ヒーロー、クローディオ、ベネディック、ベアトリス)

オックスフォード大学・演劇部による公演。1885年創設で、ジュディ・デンチもOGというから、なかなかの名門だ。この『から騒ぎ』も、ほとんどが現役学生の若々しいエネルギーが溢れる舞台だった。演出は、学部3年生のマックス・ギル。原作はイタリアのシチリア島メッシーナの領主やその息子たちの物語だが、この舞台は、1950年代のシチリア島のマフィアの親分とその息子たちに置き換えられている。コルト拳銃を持ち、長身でイケメン、スタイリッシュな青年たちが美しい。原作では「男らしさ」が強調されるので、“マッチョ”な雰囲気を出すためにイタリア「マフィア」にしたのだろう。だが、父を演じる親分たちも20歳くらいの青年なので、父と息子という本来ならあるべき世代差が消え、全員が仲良しのお友達関係のようだ。ヒロインのヒーローも女子高校生のように可愛い。50年代の音楽と、歌と、踊りがカッコよく、全体が、ちょっと突っ張った若者たちのみずみずしい舞台になっている。


とはいえ、科白は原作通り。今回、観て思ったのだが、『から騒ぎ』は、『十二夜』『お気に召すまま』のような洗練されたロマンティック・コメディーとは違って、どこか違和感の残る中途半端な「笑劇」といえる。突っ張った“独身主義者”同士の、ベネディックとベアトリスが、周囲のおぜん立てに騙されて心ならずも恋に陥ってしまうのが筋の一つ。二人ともなかなか味のあるキャラなのだが、『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオとカテリーナのペアに比べると、突っ張りが弱い。もう一つの筋は、騙されやすい善良な青年クローディオが、自分は何もしないで、ひたすら善良な娘ヒーローと結ばれることになったが、途中に陰謀が入って、ヒーローが不倫娘にされてしまい、騙されたクローディオが結婚式でヒーローを面罵し、彼女は失神して結婚がダメになってしまう。この後者の筋に、ベネディック/ベアトリス組の恋のさや当てがうまく交差して(=ベアトリスは、ベネディックに、「男らしく」クローディオと決闘しろとたきつける)、問題が解決されて大団円になる運びのはずなのだが、その交差がうまく機能しないまま、突然「めでたしめでたし」になって終わるという印象を受ける。『十二夜』では主筋と副筋が、驚くほど見事に平行しつつ交差するのだが、『から騒ぎ』では、二つの筋の関係が曖昧なのだ。


たしかに、「立ち聞き」による偶然性が物語を進めるという点は一貫しており、ベアトリス/ベネディックが恋に陥るのも偶然の立ち聞きによるし、ヒーローを陥れた陰謀がばれるのも、当事者が自慢して語るのを夜警に立ち聞きされるからだ。つまり、問題の解決はすべて立ち聞きという偶然性によってもたらされる。偶然によって問題が解決されるのは喜劇の常道だから、それはよいのだが、構成がまだ甘いために、「嘘っぽいにも関わらず、我々が、めでたしめでたしと大団円を受け入れる」という最後の成果が完全には達成されていない。演出のギルはプログラム・ノートで、『から騒ぎ』は成功した喜劇ではあるが、『尺には尺に』のようなシェイクスピアのいわゆる「問題劇」に近いと述べている。これは正しい指摘だと思う。だからこそ、長身のイケメンが可愛い娘たちとリズミカルに歌って踊るみずみずしい若者劇に仕立てたところに、オックスフォード学生劇団らしい「様式化」の成功がある。