ワーグナー『パルジファル』

charis2012-09-16

[オペラ] ワーグナーパルジファル』 東京文化会館大ホール


(写真はすべて、同じ舞台のバルセロナチューリッヒ公演より。右写真は、パルジファルを誘惑する美女たち。下写真は、左端階段中段のパルジファル(腹部の赤い血は、アムフォルタス王の傷を共苦する象徴)を殺そうと、聖槍を持って上から降りてくる魔術師クリングゾル、右端に立つ女はクンドリ。その次の写真は、帰還して倒れているパルジファルと、見つめる老騎士グルネマンツ)

ワーグナー最後の作品『パルジファル』は、地味なこともあって、日本ではめったに上演されないが、今回のクラウス・グート演出・二期会公演は素晴らしいものだった。飯守泰次郎指揮、オケは読響。クラウス・グートは、2006年ザルツブルグ音楽祭『フィガロ』の衝撃的な演出が記憶に残るが、この『パルジファル』は卓越したものだと思う。DVDで見た2004年バーデン・バーデン歌劇場のレーンホフ演出よりも、今回の方がずっと良かった。『パルジファル』は中世の物語で、聖槍を奪われて苦境と荒廃に陥った聖杯騎士団が、「病人の苦しみを共に苦しむことによって、知に至る、清純な愚か者」パルジファルによって聖槍を取り戻し、赦しと和解が実現する。が、神話的な物語なので、他のワーグナー作品以上に抽象的で、個々の場面で何が起きているのかがよく分からず、どの人物も謎めいており、行動や感情の理由もよく分からない難解な作品でもある。音楽も、とても美しいが、どちらかといえば静かで、劇的に盛り上がる感じではない。


グートは、原作の聖杯城を、第一次世界大戦直後の傷病兵療養所に置き換える。これは、きわめて適切な置き換えで、オペラが現代的演出によってこのように見事に表現されることに驚いた。というのは、中世の聖杯騎士団の城で「世の中も荒廃している」と言われても、どういう状況かよく分からないのに対して(例えばレーンホフ演出では、コンクリート打ち放ちの廃墟に皆が立っているだけ)、第一次大戦直後で、しかも傷病兵療養所であれば、何が起きているのか、一目でよく分かる。傷の痛みに苦しむ者、心を病む者を介護する看護婦たち、医者、そして集まって聖職者と共に祈りをささげる傷病兵たち。それを上から見下ろしている祀られた聖杯。奪われた聖槍で腹を刺され、重傷の傷に呻吟するアムフォルタス王は、患者の中でも特別室にいる高貴な者。そして全体の舞台回しでもある、先王の忠臣たる老騎士グルネマンツは、療養所専属の聖職者になっているが、これも巧みな置き換えだ。というのも、聖職者は「死」を管理すると同時に「心」を統べる者であり、彼が医者や看護婦と共に傷病兵たちをケアすることは、傷ついた騎士たちで溢れる中世騎士団の光景を具体的に可視化する設定といえる。


回転舞台の使い方も非常に上手い。大部屋と小部屋を合わせて全体が三つに分かれている回転舞台が、次々に交替する。それに加えて二階と一階という空間の上下を活用するので、いつも人の動きがあり、観客を退屈させない(一般にワーグナーは、歌手がつっ立ったまま長々と歌う退屈なシーンも多いから(笑))。もともと神話だから、登場人物の誰もが謎めいているのだが、現代の一定の輪郭を持つ人物に置き換わって可視化されると、ある種の不条理劇のようになるのも面白い。とりわけアムファルタス王がそうで、わき腹を槍で傷つけられたという理由でイエスに擬されるのも奇妙だが、彼はどのようなコンテクストを想像しても、居場所がないような人物である。グート演出だけでなく、たぶん原作もまた、むんむんするような父・息子あるいは母・娘関係が、精神分析のように表現されているのかもしれない。謎の女クンドリがパルジファルを誘惑するシーンでも、「母の接吻を受けよ」と迫る。また、これはまったくのグートの解釈だが、アムファルタス王と魔術師クリングゾルはどちらも先王ティトゥレルの息子で、アムファルタスを溺愛する父に反発してクリングゾルが家を出てゆくというシーンが、幕開け前の前奏曲中に演じられる。もっと驚くべきは、最後の終幕、救済者パルジファルがナチに変身したことが示唆され、独裁的救済者を求める方向へ流れた大戦後のドイツの苦境と重なる。


歌手はすべて日本人だが、作品が他のワーグナー作品ほど突出した声量を要求されないようなので、全体のバランスがよく取れていたように思う。クンドリを歌ったソプラノの橋爪ゆかは、比較的低めの声もよく通って、とてもよかった。