コンヴィチュニー演出『マクベス』

charis2013-05-03

[オペラ] コンヴィチュニー演出 ヴェルディマクベス』 東京文化会館


(写真右と下は、陽気な魔女たち、原作のような森ではなくカラフルな下着も干してある台所だ、人数も三人ではなくうじゃうじゃいる。その下の写真は、踊るマクベス夫人、宴会に現れたバンクォーの亡霊にマクベスが怖気づき、すっかり白けた宴会を再び盛り上げようと奮闘する、夫人の踊っている台はバンクォーの棺、本公演の写真は少ないので同じ2011年12月のライプツィッヒ公演からも)


コンヴィチュニー演出の実演を観るのは、『皇帝ティト』『魔笛』『サロメ』に次いで4回目だが、今回も創意あふれるすばらしい舞台だった。前衛的で、色彩に富み、そして深みがある。ヴェルディの『マクベス』は、筋はシェイクスピア原作に忠実だが、印象は非常に違う。というのは、原作は完全な悲劇なのに、オペラ版はコミカルな要素が加わって、一種の不条理劇のようなものになっているからだ。コンヴィチュニー演出は、そこをいっそう際立たせたもので、オペラ版がこれほど多様な要素を含む深みのある作品であることを明らかにした。9年ほど前に観た野田秀樹演出のヴェルディマクベス』も、本演出に比べるととても平板なものだったと思う。(下の写真は、順に、手に着いた血に苦しむマクベス夫人、魔女たちの宴会で王たちの亡霊を見るマクベス)


第四幕になると、さすがに悲劇的な色彩が強くなるが、第三幕までは、全体的にどこか乾いた喜劇のようなところがある。その理由の一つは、行進曲やワルツのように軽快なリズムの音楽が全編に溢れているからだ。深刻な悲劇的旋律やアリアは非常に少なく、第四幕に集中している。たとえば、第一幕、ダンカン王の一行がマクベス邸にやってくるところはとても面白い。ヴェルディ原作では、一行は黙って通り過ぎるだけだが、本演出では、ダンカン王は軽やかなステップを踏んで踊りながら現れ、マクベス夫人といちゃついた後、下着姿になって、護衛二人と三人並んで、大きなダブルベットに飛び込むようにして寝る。ダンカン王は、まったく威厳の無い、とても軽薄な“王さまちゃん”になっており、シェイクスピアとは正反対のキャラだ。王という権力の空しさを最初から嘲笑しているわけで、そんな王権を奪うことに必死になるマクベス夫妻は、実に滑稽な道化師になってしまう。ヴェルディ原作に潜在的に含まれていたこのような可能性を現実化したところが、コンヴィチュニーの凄いところだろう。


ヴェルディ原作では、魔女は三人で、出番も第一幕と第三幕だけだが、本上演では最初から最後まで、たくさんの魔女たちがほぼすべての場面に出ずっぱりだ。ギリシア悲劇のコロスよりももっと大きな役割を果たしている。カラフルな魔女たちがいつも音楽に合わせて、身振り手振り豊かに戯れたり踊ったりしているので、場面はいやでもコミカルになるが、それだけではない。第四幕、マクダフとマクベスが戦う内戦は、独立達成を願う当時のイタリアの分裂の苦悩と重ね合わされており、そこでは、魔女たちは、兵士たちとともに、イタリア民衆を象徴する存在になっている。そもそも台所に集う魔女たちは、いかにも普通の女たちで、生活の匂いが溢れている。干してある下着だけでなく、大きな冷蔵庫からいつも何か取り出して飲み食いしているし、大きな電気掃除機を担いで、血生臭い事件でこぼれた血を掃除婦の平常心でさっと吸い取る。何よりも素晴らしかったのは、終幕だ。ヴェルディ原作では、勝利したマクダフ・マルコム連合軍が、荘厳にフィナーレを演じるようになっているが、コンヴィチュニーはそこを完全なパロディにしてしまった。というのは、場面は再び魔女たちの集う台所に転換し、荘厳なフィナーレの勝利の音楽を、魔女たちは笑いながらそこに置かれたラジオから聞いているからだ。