ヴェルディ『リゴレット』

charis2013-10-06

[オペラ] クリーゲンブルク演出:ヴェルディリゴレット』 10月6日、新国立劇場

(写真右は開幕、ホテルでの舞踏会。写真下は、道化師リゴレットと娘のジルダ、もう一つは、ホテルの屋上、リゴレットたち下層階級が貧しい小屋に住む、遠くに東京の夜景が広がる)

ユゴーの戯曲『王は楽しむ』を、ヴェルディがオペラ化。検閲を逃れるために、時代や場所を変更したが、筋書きはほぼユゴーの原作に添っている。本公演では、ドイツの演出家クリーゲンブルクは、舞台を、16世紀の貴族の城から現代の大都会の巨大ホテルに移している。回転舞台を生かして、動く巨大なホテルが権力を象徴し、閉ざされた各部屋とその外部が、支配と被支配の関係になって、ホテルに滞在するしゃれた衣装の金持ちや権力者と、貧しい民衆との階級対立も象徴的に示されている。


権力者のマントヴァ公爵は女を自由に漁るドン・ファンのような男だが、彼の多数の側近もまた女遊びに熱心で、ホテルの客室からは弄ばれた美女がカラフルな下着姿で泣きながらポツリポツリと廊下に出てくる。モダンで美しいホテルが、実はハーレムのように使われているのだ。一方、背中に大きな瘤をもつ身体不具者の道化師リゴレットは、マントヴァ公爵に使えているが貧しく、その娘のジルダと一緒にホテルの屋上の小屋に住んでいる。いわばホームレス父娘という見立てだ。(写真左は、女性を見境なく誘惑するマントヴァ公爵、右は、ジルダを誘惑する公爵)


この作品がかくも感動的であるのは、ヴェルディの見事な音楽はもちろんだが、ユゴー原作の優れたドラマ性に負っている部分も大きいだろう。無知で愚かな愛に滅んでゆく父と娘だが、その愚かな愛の中に純愛と真実があり、醜くグロテスクなものの中に真実の美が光るからである。どこか『レ・ミゼラブル』にも通じるところがあるのではないか。愚かな父は、溺愛する娘を囲い込んで離さないために、娘はいつまでも自立できず、社交の経験もないから、男を見る目がまったく養われない。宮廷の権力関係の中にある男女の遊びというものが分からず、マントヴァ公爵を本気で愛してしまう無垢で美しい娘ジルダ。何て馬鹿な女、そんな男はやめておけばいいのにと思うのは我々の浅慮であって、男女の愛は主体が自由に操作できるようなものではないのだ。ドン・ファンである公爵も、悪人ではあるが美的な形象だ。彼の歌う有名なアリア「女心の歌」は、その軽やかな明るさが、信じられないほど美しい。終幕で、死にゆくジルダを尻目に、公爵が他の女を連れて屋上のエレベータに乗り込んで去るとき、このメロディーが再び流れる。本当に戦慄するシーンだ。


それにしても、第二幕のリゴレットとジルダの短いデュエットの美しさ、それに公爵と女のデュエットが加わる第三幕の四重唱の筆舌に尽くしがたい美しさ。父と娘の二重唱といえば、『椿姫』第二幕のジェルモンとヴィオレッタのそれが思い出されるが、父と娘という関係には恋人同士とはまた違う何かがあるのかもしれない。ヴォータンとブリュンヒルデもそうだが、もしヴェルディが『リア王』をオペラ化していたら、リアとコーディリアの二重唱もあったのではないか。今回、リゴレットはイタリアのバリトン、マルコ・ヴラトーニャ、ジルダはロシアのソプラノ、エレナ・ゴルシュノヴァ。前者は怪物めいたグロテスクさ、後者は清純な可憐さが印象的で、歌もよく、よいキャスティングだと思う。公爵はもう少しハンサムにできなかったのか。