ピーター・ブルック『ザ・スーツ』

charis2013-11-14

[演劇] ピーター・ブルック『ザ・スーツ』 渋谷・パルコ劇場


(写真右は、ヒロインの美しい妻マチルダを演じるノンランラ・ケズワNonhlanhla Kheswa、彼女は南アフリカ出身のシンガーで、張りのある美しい声と可愛らしい笑顔が印象的だ、これは、逃げた恋人が置き去りにしたスーツに自分の片手を通し、抱き合うシーン。下は舞台写真。ほとんど装置はないのだが、縦・横の直線からなるさまざまな「枠」が空間を自在に切り取っていて、そこに人の動きが加わるので、空間が音楽のように開示される)


ブルックの実演を観るのは『ハムレット』『魔笛』についで三作目だが、シンプルで、スタイリッシュで、美しい舞台は、今回も同じだった。『ザ・スーツ』は1950年代の南アフリカが舞台で、浮気した妻に対する夫のイジメが独特で、国家全体の黒人差別が転化したものであるという、重く苦しいテーマなのだが、その抑圧が、音楽の力も借りて、詩的に美しく昇華されている。抑圧を絶望的に描かなかったことに対して、ブルックはインタヴューでこう述べている。「ますます残酷さを増す人間生活の一面に対し、もし今日の演劇が何かをする責任があるとすれば、それは、残酷さを絶望の淵に沈み、喉をかっ切って自殺する理由として描くことではない。逆にそこから、希望や勇気に真の意味が見えてくるということ。それが観客一人ひとりに示されなければならない。」


この作品で印象的だったのは、自己表現が抑圧されるところに、抑圧の頂点があるように見えたことである。妻の浮気に対して、夫は、逃げた恋人が置き忘れたスーツを人間とみなして、それを大切に扱えという奇妙な命令をくだす。これは夫の復讐なのだが、妻のマチルダは「この程度なら平気よ」と耐えてみせる。だが、マチルダが文化活動に参加し、もともと大好きだった人前で歌うことに喜びを見出すようになった後、破局が訪れる。友人たちを招待して自宅で行われるパーティ。そこで彼女が歌い、皆が一緒に踊る喜びの絶頂の場面で、夫はマチルダにスーツと一緒に踊れと命令する。動揺する彼女、パーティは中止され、友人たちは逃げるように帰る。そして最後、赦しを決意して部屋に戻った夫に対して、妻は目覚めない。希望があるのかないのか、両義的な終幕。いずれにしても、彼女が歌を歌うという自己表現において自己を取り戻した、その頂点において破局が訪れたことが、深い悲しみを誘う。


進行の半分は、語りに音楽が加わるので、オペラのレチタティーボのような趣がある。ギター、トランペット、ピアノの三重奏で奏でられる音楽は、シューベルトの歌曲、ヨハン・シュトラウスのワルツ、映画『禁じられた遊び』、そしてタンザニア民謡「マライカ」など、さまざまなメロディーだが、あるときは子守唄のように、あるときは讃美歌のように、どれも美しく澄みわたって、心に沁みる。「思いがかなわないすべての人々に捧げる」とマチルダは語ったが、この音楽は祈りの心に寄り添うような趣がある。一つ不満を言えば、表示された字幕が短すぎたこと。もう少し科白の細部を訳した方がよいのではないか。


以下にYou Tubeの画像があります。
http://www.youtube.com/watch?v=0efWlhzV5yE