平野啓一郎『空白を満たしなさい』

charis2014-03-08

[読書] 平野啓一郎『空白を満たしなさい』(講談社、2012年11月刊)


死を定められた人間が、死と向き合い、死と和解することによって、死への恐怖と苦悩から解放される物語。非常な力作で、次の二点が優れていると思った。


(1) 平野は明らかに生に力点を置き、生の側から死と和解しようとしている。つまり、エピクロス的、スピノザ的な死の理解であり、決してパスカル的ではない。物語の最後の文章がそれを示している、「永遠が、一瞬と触れ合って、凄まじい光を迸(ほとばし)らせる。璃久が駆け寄ってくる。抱きしめるまでは、もうあと少しだった」(p493)。「璃久(りく)」とは、主人公の徹生(てつお)の4歳の息子である。この文章が素晴らしいのは、徹生の自殺の場面と呼応しているからだ。徹生は一度自殺して3年後に生き返った「復生者」なのだが、自殺したとき、背後から追いかけてきたのが他ならぬ「瑠久」の影だった。奇蹟のような「復生者」だが、どんどん消失していき、つまりはもう一度死ななければならない運命にある。徹生も消失するのだろうかと読者の誰もが予想して緊張する物語の終末が、生と死の境界線を消すことによって終わっていることは、要するに、「どちらでも同じことだ」という作者のメッセージなのだろう。これはヘーゲルの言う「自由=無関心性、無差別性Gleichgueltigkeit」であり、人間が死と和解するには、これ以外にありえないと私は思う。徹生に駆け寄ってくる「璃久」は、一度目は、徹生を自殺させる殺人者の「分人」だったのが、二度目は、「抱きしめるまで、もうあと少し」の、生の「分人」である。このようにして死と和解し、永遠を生きる徹生、物語を終わらせるには、これ以外にありえない。何という素晴らしい文章! そして、死んでゆく者が後に残された者たちに記憶や遺品や影響を残そうとしようというプランに、徹生が最後に懐疑的になることも重要である。「けど、死んだ人間は、生きている人間を圧迫すべきじゃないんだ。人間は、限りある命で、出来るだけ自由に生きるべきだ。だったら、死者は進んで無になるべきじゃないだろうか?」(p479)


エピクロスあるいは大森荘蔵が明確に述べたように、生と死の間の境界線は存在しない。境界線が存在するということは、境界線の向こうが見えるということである。隣家との境界線、国境、県境、そして、祭りやTV番組の始まりと終わり等々、要するに境界線というものは、存在するものの間にしか引くことはできない。存在と無の間には境界線は引けないから、生と死の間に境界線を引くこともできない。つまり、生きている者にとっては、どんな年寄りであっても、自分の人生の「終り」は決して見えない。どんなに先を見ても、見えているのはどこまでも生の光景である。パスカルのように、死という境界線の向こう側に、「永遠の孤独」や「真っ暗闇」が見えるというのは、真っ赤な嘘である。死後が「永遠の孤独」であるというなら、我々が生まれてくる前も「永遠の孤独」だったはずだが、我々は果たして生まれてくる前に「永遠の孤独」を体験しただろうか、していない。20年生きる者も、80年生きる者も、生の前と後との境界線を引くことはできないのだから、「人生の絶対的な長さ」というものはないのであり、すべての者の人生は、長短なく「永遠に生きる」ことと同じである。


(2) この作品のもう一つ主題は、自殺である。主人公の徹生は(34歳? 生き返るまでの3年間の「空白」、それは徹生にとって30分間の記憶の「空白」だから、正確な年齢は分からない)、妻の千佳と息子の璃久との幸せな生活の絶頂にいたから、自分が自殺するはずないと信じている。しかし、調べてみたらやはり自殺だった。自殺は残された者たちの「喪の作業」を複雑にする(p419)。オフィーリアの埋葬が寂しいものであったように、死と和解する際の大きな障害の一つは自殺である。


平野は、自殺の問題を「分人」の思想によって捉え直そうとする。「分人」とは彼の造語で、我々は同一性のある自我、すなわち「個人」で生きているように錯覚しているが、実は、人生で出会い向き合う他者の数だけ、それぞれ異なった「分人」が自分の中にあり、「自分」というのは無数の「分人」の集合体であると平野は考える。「分人」の思想によって、「本当の自分」という幻影に悩まされることが少なくなり、自殺も減らせるのではないか。つまり、まるごと全部の自分を消す(=自殺)のではなく、嫌な「分人」だけを消すと考えれば、自殺はしなくてすむ、と。摂食障害リストカットなどは、嫌な自分を消そうとする「分人の間の争い」なのだが、時として、まるごとの自分を消す本当の自殺になってしまう。徹生の自殺もこのように描かれている。佐伯という徹底的に嫌な人物は、生を否定する言説を巧みに徹生に吹き込み、自分も本当に自殺してしまう。佐伯に反発しつつも、佐伯の言うことに真理もあることを認めざるを得ない徹生は、自分の中に、生を否定するような対・佐伯の「分人」が形成される。自分の一部のこの「分人」が徹生は嫌でたまらない。だからそれを、「生を肯定する」別の「分人」によって消そうとする。その「生を肯定する」別の「分人」こそ、生まれてきた息子の璃久を深く愛している対・璃久の「分人」である。だから、徹生がビルの屋上からふらふらと転落する自殺の最後の記憶において、徹生を「追ってきた影」は、実は佐伯ではなく、瑠久だった。この箇所は、本作のもっとも衝撃的な場面であり、フロイトの言うエロス/タナトスの不可分性の問題があるのかもしれないが、小説の読者としては、必ずしも釈然としない箇所だった。おそらく、まだ解明すべき謎があるだろう。


本作では、ゴッホの数多くの肖像画を「分人」と解釈する箇所が素晴らしく、有名な「麦わら帽子の自画像」が実は弟テオの像だったという、2011年6月のゴッホ美術館の発表がとても上手に活かされている。ゴッホの自殺を、「分人」同士の争いと捉えるわけだ。また、生き返った徹生に戸惑う妻の千佳と体を交わすシーンは、とても美しく描かれている。そして、最後の章の、千佳の実家で千佳の両親と和解するシーンも素晴らしい。優れた小説には、その表現によって初めてそのような事実や感情が存在することを我々に「発見させる」ような卓越した表現が含まれている。ルソー『新エロイーズ』、プルースト失われた時を求めて』などはまさにそうだが、平野のこの作品にも、キラリと光る優れた表現がいくつも見出される。たとえば、「我々はいつでも、癒しを与えることを急ぎすぎ、自分の住んでいる世界を憎悪から守るのに必死で、他者の苦悩を尊重することを忘れがちです。」(p292)