池辺晋一郎『鹿鳴館』

charis2014-06-22

[オペラ]  池辺晋一郎鹿鳴館』 新国立劇場・中ホール


(写真右は、右側に立つのが景山伯爵、中央の和服は妻の朝子、写真下は同じく舞台から)


2010年初演の再演だが、私は初見。三島由紀夫の戯曲をもとに、鵜山仁が科白を削って上演台本を作り、池辺が作曲した。演出は鵜山。全体が演劇的な作りのオペラだが、三島の戯曲が傑作なので充実した作品になった。科白(歌詞)も重厚で聞きごたえがある。日本語オペラなのに字幕が出るのは、科白の質を考えると必要なのかもしれない。


三島の戯曲は、鹿鳴館という明治政府の浮ついた欧化主義を茶化すだけでなく、そこに自由民権運動と保守派との政治的対立を織り込み、しかも男女の愛憎劇に仕立てられているという点で、とてもよく出来ており、オペラ向きの題材でもある。保守派の政治家である景山伯爵の妻である朝子は、もと新橋の芸者で、昔の恋人に清原永之輔という自由民権運動の闘士がいるだけでなく、彼との間にもうけた久雄という男子もある。そのため、政治から身を置いているはずの朝子にとって、夫と元カレとの政治的対立は、否応なしに男女の愛憎と絡まり合ってしまう。そして、意外なことに、久雄が暗殺を企てる対象は保守派政治家の景山伯爵ではなく、実の父の清原なのである。それは、民権運動という政治運動にのめり込んで家庭や子供のことを一切顧みなかった父親に対する、捨てられた息子の復讐なのであった。そこにやや飛躍があり、オペラにしては複雑すぎる話なのだが、父vs息子というエディプス的対立を、政治的対立や男女の愛憎に加えたことが、ドラマに何ともいえない暗い奥行きを与えている。


景山伯爵の深みのある政治観も本作の見どころである。彼は言う、「政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。この世を動かしている百千百万の憎悪の歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。・・・その菊を見てごらん。・・・これが庭師の丹精と愛情で出来上がったものだと思うかね。・・・こいつは、庭師の憎悪が花ひらいたものなんだ。乏しい給金に対するに庭師の不満、ひいては主人の私に対する憎悪、そういう・・・憎悪が・・・この見事な菊に移されて咲いたわけさ。花つくりというものにはみんな復讐の匂いがする。絵描きとか文士とか、芸術というのはみんなそうだ。この力の弱い者の憎悪が育てた大輪の菊なのさ・・・」。ニーチェ風の「ルサンチマン」によって政治を捉えるだけでなく、文学や芸術までも包括しているところは、三島の文学・芸術観なのかもしれない。そこにさらに、無力な息子である久雄の父への憎悪と、ヨーロッパへの劣等感に苦しむ鹿鳴館的“昇華”の滑稽さが重ね合されるのは見事という他はない。


ただし、オペラとしてはどうなのだろうか。池辺はオペラを10曲も作曲しているだけでなく、無類の多作家だそうだが、本作にはどこか「ちぐはぐ」な感じが残る。付けられた音楽は、尖がってはいないがやはり現代音楽であり、調性にもとづいた美しいメロディーではない。21世紀のオペラに「様式美」を求めることはもはやできないし、鹿鳴館的“昇華”がそもそも「ごた混ぜ」であるのだが、ちょうどこの時代の上流階級の社交や舞踏を幾つも表現したリヒャルト・シュトラウスなどのことを考えると、鹿鳴館と現代音楽とは、やはり相性が悪いのだろうか。


ダブルキャストなので、私の観た日は、景山伯爵を与那城敬、朝子を腰越満美、友人の公爵夫人とその娘を、谷口睦美と幸田浩子、清原を宮本益光が歌った。伯爵の冷たさ、新橋の芸者上がりの朝子のある種のたくましさがよく出ていたと思う。清原は、類型的なオペラ・キャラのどれにも入らないので、典型として描けない人物なのだが、民権運動の闘士というよりは、弱々しい文士風に造形されていた。これでよいのかもしれない。