永井愛『鴎外の怪談』

charis2014-10-25

[演劇] 永井愛『鴎外の怪談』 10月25日 池袋・東京芸術劇場小ホール

(写真右は、鴎外(金田明夫)と美人妻のしげ子(水崎綾女)、写真下は「スバル」編集長にして大逆事件弁護人を務めた平出修(内田朝陽)との相談、そして山縣有朋に直訴しようと書簡を書く鴎外)


永井愛を観るのは、『かたりの椅子』(2010)以来だから、久しぶりだ。永井には『歌わせたい男たち』『やわらかい服を着て』『かたりの椅子』など、戦争や国家による言論・思想統制を批判した作品群と、樋口一葉を描いた『書く女』など歴史ものがあるが、そうした二つの系列が合流するところに、今回の『鴎外の怪談』がある。永井作品の素晴らしいところは、抱腹絶倒の楽しい喜劇を通じて、深刻な政治的・思想的事件を正面から批判するという、アリストパネスを思わせる力量にあるだろう。「笑い」には本来、批評性があり、喜劇は政治批判にぴったりなのだ。本作も、大逆事件で苦悩する鴎外を描きながら、鴎外の母である「みね」、妻の「しげ子」、そして若き日の永井荷風や平出修など、人物のすべてが実に生き生きとそして面白おかしく描かれている。それが同時に、明治政府の捏造である大逆事件の輪郭を浮かび上がらせ、ドレイフュス事件と戦ったゾラと比較して自分たち文学者の在り方に懊悩する明治知識人の姿を描き、そしてまた、現代日本の「秘密保護法」を通じた言論・思想統制への批判になっている。


鴎外の妻のしげ子や母のみねが、これほど個性的な人物であることは知らなかった。鴎外が二人に翻弄される姿は、永井の創作部分が大きいだろうが、気の強いしげ子は「スバル」に小説を書いていたこと、みねが鴎外の結婚後も家計を握り、鴎外を追ってドイツからやってきたエリスを追い返すなど、一家を仕切った「偉大なる母」だったことは史実であるから、二人の嫁・姑バトルや、家庭人としての鴎外が二人にこのように滑稽に翻弄されたことには違和感を感じない。


若き日の永井荷風大逆事件に衝撃を受け、「文学者」から「戯作者」に転向したことは、彼の小説『花火』から知られる史実であり、本作の荷風の科白も『花火』の文章そのものを使っているから、永井愛の創作ではない。鴎外も「三田文学」に「沈黙の塔」「食堂」という大逆事件への「批判のようにも取れる寓意小説」を二つ寄稿しているから、「三田文学」編集長の荷風との遣り取りも不自然ではない。本作で何よりも重要なのは、森鴎外という人物の二面性を主題に据えたことにある。鴎外は社会主義無政府主義にも詳しく、文学者であるだけでなく当時の最高の知識人であり、大逆事件弁護人を務めた「スバル」編集長の平出修に、思想面からのアプローチを伝授したのはおそらく鴎外であり、幸徳秋水や菅野スガなどが法廷での平出弁論に感謝する書簡が残っていることからして、大逆事件の捏造性をよく理解し、批判する側に立っていたことは、「三田文学」の小説からも言えることである。しかし鴎外は同時に、ここが重要な点なのだが、山縣有朋が主宰する諮問機関「永錫会」のメンバーであり(内相、文相など参加)、大逆事件の処理方針の大枠はこの秘密会で決まったものと考えられ、鴎外も親友の加古鶴所とともにこの会議に出席していた。本作では「二人は賛成したわけではなく、会議では沈黙していた」とされ、「なぜ自分は反対意見すら言うことができなかったのか」と鴎外は激しく懊悩する。


このように鴎外は、大逆事件を処罰する明治政府の側と(山縣との繋がりだけでなく、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長でもあった)、それを批判する側との両方にコミットするという稀有な二重性の立場に立たされ(これは史実だろう、「怪談」というタイトルの由来はここか?)、激しい良心の痛みに苛まれながらも、母みねや親友の加古鶴所に抑え込まれて山縣有朋への直訴は挫折する(これは永井愛の創作か)。しかしこれは、たまたま大逆事件における鴎外の「自己保身を優先する体制順応性」であるというだけでなく、『舞姫』以来、自身の出世のために恋した女性を裏切って捨てるという鴎外の生き方そのものと関連付けたところが、本作の優れたところでもある。


本作では、鴎外は『舞姫』のエリスの影をずっと引きずっている。終幕は、孤独な鴎外が、「やっぱり、こういう顚末になったよ、おかしいだろ、エリス・・・」と、心の中のエリスに呼びかけるシーンで終わる。妻のしげ子は、鴎外の心がエリスにあることを知っており、エリスに嫉妬している(これは永井愛の創作なのか)。『舞姫』には、エリスとの別れを決心してエリスを訪ねる太田豊太郎が、途中の雪道で行き倒れのようになり苦しむシーンがある。これは従来、鴎外が「エリスを捨てることに自分はこんなに苦しんだのだ」ということを示すために書いた、卑怯な自己弁明とみなされて非難されてきた箇所である。だが、しげ子はこの箇所を違ったように読む。この上演で私がもっとも印象深かった科白なので、しげ子が鴎外に、文学少女だった頃から「なぜ貴方のことが好きだったか」を語る科白を戯曲から引用しよう。


>恋人を捨てる罪の意識で、ここまで乱れる男性を[私は]日本の小説で読んだことがなかったの。尾崎紅葉幸田露伴も好きだったけれど、森鴎外が書く男性は、ひときわ人間的な魅力をたたえていて、いつかこういう人と巡り合えたらと願った。だから、パッパと[しげ子は鴎外をこう呼んでいた]見合いをすることになって本当に驚いた。(『悲劇喜劇』2014年11月号)


しげ子だけでなく永井愛も『舞姫』をこのように読んだのかもしれない。金髪の女性を「美しい」と書いた小説は『舞姫』が最初であり、男女間に生まれる感情に「愛」という漢字を当てた最初の人が鴎外だと言う(パンフの関川夏央による)。私は、「情報」という語を初めて使った日本人が鴎外であることは知っていたが、「愛」を男女の現代的文脈で使ったことは知らなかった。本作で永井愛は、鴎外を体制順応主義の卑怯な男として描いてはいない。鴎外を体制の枠の中に抑え込もうとする母みねや加古鶴所との遣り取りには鬼気迫るものがあり、良心の痛みに苦悩する鴎外が喜劇として描き出されている。人物の矮小さを喜劇的に描くことは簡単だが、ここで喜劇的に描かれた鴎外も荷風もしげ子もみねも少しも矮小ではない。一人一人が生き生きと個性的で、その誰にも限りないいとおしさを感じる。どうしてこのようなことが可能なのだろう。やはり永井愛は現代のアリストパネスのような人だと、あらためて思う。東京公演は終わったが、これから全国公演が始まる。