[オペラ] ヴェルディ『ドン・カルロ』 新国立劇場 2014.11.30
(写真右は、第2幕「異端者の火刑」、写真下は、左から王妃エリザベッタを歌うセレーナ・ファルノッキアと、王子の親友ロドリーゴを歌うマルクス・ウェルバ)
マレッリ演出の本公演は、2006年初演の再演だが、私は初見。前日に、原作のシラー『ドン・カルロス』を読んだが、充実した大作で、こんな優れた戯曲だとは知らなかった。スペイン国王フィリぺ二世と美貌の幼な妻エリザベート、王子ドン・カルロス、独眼流美女のエボリ公女などは実在の人物で、無敵艦隊の全滅やスペインの植民地オランダの独立運動など、史実も踏まえてシラーは演劇化した。手に汗を握るドラマの展開で、宮廷恋愛のもつれや渦巻く陰謀、国王の孤独、旧教/新教の対立、そしてハムレットとホレーシオを思わせる、王子カルロスと青年侯爵ロドリーゴの友情など、筋の展開はまったく飽きさせない。しかも、書かれたのがフランス革命の2年前で、シラーは28歳、国家と市民的自由についてのシラーの主張がたくさん盛り込まれた社会性・思想性の高い作品である。国家と市民的自由、宗教的自由の葛藤を描いているから、現代的でもある。
シラーの戯曲が多面的・多層的な超大作なので、それをオペラ化したヴェルディの作品は、原作のごく一部がピックアップされ、改変されたものになっている。直前に戯曲を読んだせいで、今回は、演劇とオペラの差異についていろいろ考えさせられた。キルケゴールは、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を論じた『あれか、これか』の中で次のように述べている。すなわち、演劇においては、個々の人物の行為が目的論的連関の中に置かれていることが重要で、「彼は何をしているのか」「彼女はなぜそうするのか」ということ、つまり個々の行為の意味が、劇の進行によって観客に見えてくることが重要である。それに対して、オペラでは、演劇のように複雑な科白は言えないので、言葉によってコンテクストを設定し、目的論的連関をうまく表現するのは難しい。オペラでは、表現のメインはあくまで音楽にある。音楽によって表現できるのは、個々の行為の意味ではなく、行為する主体や行為に関わる他者の感情である。感情は、言葉のようなくっきりした輪郭をもたないまま、時間的に生起して少し持続し、消滅するという、まさに音楽と似た在り方をする。キルケゴールによれば、モーツァルトのドン・ジョバンニは演劇的なキャラクターではまったくなく、エルヴィラやツェルリーナの歌の中からジョバンニの声が聞こえてくる、つまり、感情によって他者を自分に内面化するのが「愛」であり、ジョバンニはこの意味でまったく音楽的な存在なのである。モーツァルトのオペラでは重唱が際立って美しいが、重唱とは、他者の声の中に自分の声が聞こえている状態であり、複数の人間の感情が輻輳し互いに内面化される「愛」を表現するのに最適なのである。
今回のヴェルディ『ドン・カルロ』では、歌による感情の輻輳が比類のない美しさで表現されている場面に、戦慄するような感動を覚えた。たとえば第3幕の四重唱。国王フィリポ、王妃エリザベッタ、公女エボリ、侯爵ロドリーゴの四人は、みな思惑が完全にはずれて、四人はそれぞれ猜疑(嫉妬)、怒り、激しい後悔、驚きというまったく違った感情に囚われるが、これが天国的に美しい四重唱によって互いに内面化され融合化する。また第4幕の、王妃エリザベッタのアリア「世の虚しさを知る神」も美しい絶唱だが、そのすぐ後のドン・カルロとの二重唱は、『ドン・カルロ』中でもっとも美しいのではないだろうか。エリザベッタとの恋が実現可能になったまさにそのとき、王子はその恋を断念してオランダ解放の戦いに身を投じることを決意する。「私たちは天国で一緒になるでしょう」と歌う二人は、互いに相手の声の中に自分の声を聴いている。歌手は、王妃エリザベッタを歌ったファルノッキア、公女エボラを歌ったガナッシ、王子ドン・カルロスを歌ったエスコバルが素晴らしかった。
(写真下は、公女エボラ、そして国王フィリポ二世と宗教裁判長)
下記に、2分半ですが、動画があります。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/141127_003715.html