カンバーバッチ主演『ハムレット』

charis2016-05-25

[演劇] カンバーバッチ主演『ハムレット』(映画版) 2016.5.25 シネリーブル池袋


(写真右はハムレットを演じるカンバーバッチ、下はオーフィーリア、ガートルード、ホレーシオ、レアティーズ[左])




昨年、ロンドンのバービカン劇場で上演されたリンゼイ・ターナー演出『ハムレット』の映画記録版。新しい解釈が随所に見られる面白いハムレットだった。全体の構成が原作とはかなり異なり、物語の構成要素をうまく繋いで流れを作っているので、非常に分かりやすい。が、全体の作りがやや「説明的」になっているとも言える。時代設定は変わって、第二次世界大戦直後くらいのイギリスのオフィスのような感じだ。侍従など、原作では男性の人物を女性に替えたり、レアティーズ/オフィーリア兄妹を黒人と白人にするなど、黒人をたくさん登用している。ピーター・ブルック演出ではハムレットその人を黒人が演じていたが、キャラクターを多人種構成にするのは、イギリスそのものがそうなっているからかもしれない。ハムレット像は、19世紀から20世紀半ばまでは、「メランコリックで優柔不断な王子さま」が主流だったが、20世紀後半からは、「竹を割ったような直情径行で、体育会系の若者」が流行りだ。カンバーバッチのハムレットも完全にそれだが、しかしそうなると、ハムレットがレアティーズに似てきてしまう。オフィーリアが写真マニア少女で、いつもカメラを持っているのは面白いが、意図はよく分からない(写真下)。あと先王ハムレットの亡霊が、ひどく疲れたよれよれの老人で、まったく威厳がないのはなぜだろう。

あと、ガートルードの造形がやや淡白で、好色な感じが出ていない。それにしてもハムレットでいつも思うのだが、母が父の弟と再婚するのはちっともおかしくないし、それを「不潔」だと非難するハムレットの幼児性こそおかしいのではないか。レビレート婚(夫が死ぬと、妻は独身の兄弟と再婚)は、イギリスは違うかもしれないが、ユダヤ民族など、世界の多くの民族で見られる習慣だ。ガートルードは自分の「好色」を反省する必要などないのだ。オフィーリア発狂のシーンでは、彼女の科白が原作と大きく変わっており、「卑猥な」科白がカットされているのも意図が分からない。ただ、ピアノを弾くなど従来にないオフィーリア発狂シーンは、それなりに新鮮だった。とはいえ、涙を流し表情豊かに叫ぶオフィーリアには「怖さ」があまりない(写真下)。旧ソ連のコージンツェフ監督版『ハムレット』では、能面のような無表情に成り果て、自動人形のように踊るオフィーリア発狂には、何ともいえない「怖さ」があった。

今回の映画版は、劇場のシーンを収録したものだが、カメラワークにやや問題がある。人物のアップばかりで、ほとんど絶叫する姿を4時間近くアップで見せつけられるので疲れる。演劇では、舞台全体が観客の目に入るわけで、俳優に対して一定の距離があり、いましゃべっている人物以外の動きにも意味があるのだから、もう少し、アップ以外の広角の撮影部分があってもよいのではないか。ハムレットの人物像が、直情径行で、思ったことをすぐ口にし、感情むき出しに自分を表現するのが現代の演出傾向だが、ハムレットはあれほど饒舌でありながら、思いも感情も一部しか外に出せないという一面もあり(そもそも狂気を「装う」とはそういうこと)、コージンツェフ版は完全にその線で作られているので、そちらの方がリアルに感じる。(写真下は、舞台の全景)