W.ムワワド『炎 アンサンディ』

charis2017-03-08

[演劇] ワジディ・ムワワド『炎 アンサンディ』 世田谷・シアタートラム


(写真右は、主人公ナワルを演じる麻実れい、ナワルはレバノン内戦からカナダに逃れた難民の女性だが、オイディプス王の王妃イオカステに重ねられており、自分の産んだ息子に強姦されて、さらに双子の姉弟を産む、この役は麻実れい以外は考えられないほどの名演、下は、双子姉弟のジャンヌとシモンを演じる栗田桃子と小柳友、そしてナワルの遺言執行者エルミルを演じる中嶋しゅう、彼も渋いが名演、「アンサンディincendies」はフランス語で、「炎」「戦火」の意)


文学座の上村聡史演出、2014年秋に初演されたものの再演。キャストは初演時と同じ。私は初見だが、言葉にならない異様な衝撃を受けた。そして深い感動も。この作品は、そもそも演劇という表現の可能性の限界に挑戦している。内戦による殺戮の悲惨、残酷を正面から描いたもので、こんな辛く悲しいものを、3時間20分も、6800円を払って見せられるのは嫌だという観客もいるに違いない。しかも、中東の内戦と難民の悲惨さは、初演時よりも今さらにリアリティを増している。これは演劇ではなく現実に起きている悲惨なのだ。なぜそれが演劇になるのか。


アウシュビッツ以降、詩を書くのは野蛮だ」とアドルノは述べたが、この作品はまさにそれが主題になっている。プログラムノートに、麻実れい岡本健一(ナワルの最初の息子でオイディプスに相当する役)がそれぞれ、「劇場の外では、男の子がのんびりコンビニの袋をもって、あくびをしながら横断歩道を渡っている」東京の現実との落差、違和感を語っている。原作者のムワワド(1968〜)自身が、レバノンの内戦を逃れてフランスに逃れた難民であり、フランスをも追われてカナダ・ケベックに移住した人。この作品の主人公ナワルは、彼の「母」なのかもしれない。あまりにも悲惨な現実に直面したとき、人はそれを語ることはできず、沈黙してしまう。何も子供たちに語らずにカナダで死んでいったナワルは、最後の5年間、病床で失語状態だったが、最後に「みんな一緒にいられるのだから、幸せだ」とだけ発話して、死んでしまう。彼女が双子の姉弟に残した遺言の手紙を元に、姉弟レバノンに旅して、自分たちの出生の秘密を探り、そして知る。憎しみと殺し合いの中で自分たちが生まれたことを知り、二人はその都度、数日間の失語状態に陥る。「言葉で表現すること自体が、野蛮」なのだ。(写真下は↓、カナダでボクサーになっている息子のシモン)

この作品のもっとも衝撃な場面は、第二幕、ナワルが16歳の時に産んですぐ孤児院にやられた最初の息子ニハッドである。彼は、憎しみそのものを生きる復讐のスナイパー(狙撃兵)になっているのだが、彼は狙撃の天才であるだけでなく、「戦争写真家」でもある。自分が狙撃して死んだ相手を直ちに望遠レンズカメラで撮影し、それが「芸術写真」のように美しく、赤い血の色が黒白の死体の写真に付加されるのが、舞台の映像で映し出される。ピカソ抽象絵画のように美しい死体の写真。これはアウシュビッツの現場で書かれた詩だ。そして内戦を撮影しようとする日本人らしき「戦争写真家」が命乞いをするのを、彼は無慈悲に撃ち殺して写真で表現する。これは、ほぼ現実ではないだろうか。ISISが捕虜の「処刑」の映像をネットに投稿したのは、つい先日のことである。残酷と悲惨を写真で「表現する」のが戦争写真家だ。だが、それを今ここで、三軒茶屋の劇場で演じる演劇そのものも「表現」である!


私は最初、物語をオイディプス神話の形に、比喩ではなく、文字通り回収することに、やや不自然さと違和感を感じたが、よく考えみると、神話にしなければ、これは演劇として成り立たない作品なのだと思う。ナワルが16歳のときに最初に産んだ息子ニハッドが、25年後に収容所の看守になっていて、その看守が誰だか分からないまま、囚われのナワルが強姦されて二人の姉弟を産む。そして、アウシュビッツ裁判を思わせる「戦争犯罪国際法廷」で、ナワルは自分を強姦した息子と対面し証言する。これは実際にはありえない不自然な展開なのだが、一応それが分かるように、舞台の筋が工夫されている。手紙、写真、昔の現地の監獄スタッフに会う、死んだはずのナワルが繰り返し現れるなど、ほとんど不可能な物語を、舞台だけで分からせる劇作家としての手腕は凄い。そして何よりも重要なのは、ニハッドを産んだ少女のときは文盲だったナワル自身が読み書きを覚え、「表現者」になったことである。祖母の墓に文字を刻んだだけでなく、最後にカナダの自分の墓にナワルの名前を子どもたちに刻ませる。オイディプス神話もまた、自分の出生の秘密が少しずつ明るみに出るのだが、それは過去のことのなので、言葉で表現されなければ現前しない。人間は表現することによって自己を知り、それが人間を自由にする。アウシュビッツ以降、詩を書くことはたしかに野蛮なのだが、そうするしか我々は自己を知ることができない。憎しみしか存在しない人間の世界だけれど、愛が存在することを祈ること。これしか我々にはできないが、これだけは我々にできる。演劇もこうした祈りの一部ではないだろうか。(下は、プロブラム)