ストリンドベリ『令嬢ジュリー』

charis2017-03-29

[演劇]  ストリンドベリ令嬢ジュリー』 2017年3月29日 シアター・コクーン


(写真右はポスター、下は舞台、スウェーデンでは夏至の日は白夜で一晩中明るい、伯爵家では召使や農民たちが夜を徹したお祭りで浮かれおり、その歌声が大きな窓から聞こえている)

ストリンドベリの代表作といわれる『令嬢ジュリー』を、小川絵梨子演出で見た。もともと奔放な性格の伯爵令嬢が、夏至祭に浮かれて自分も召使と踊っているうちに、興奮のあまりイケメンの下男に彼の自室で体を許してしまい、下男と駆け落ちするのにも失敗して自殺するという物語。だがこれは表層であり、この作品で描かれているのは、激しい女性憎悪の父と激しい男性憎悪の母との間に育った娘が、自らの女性性を肯定的に受け止めることが出来ないことによって生じた悲劇である。原作は1888年だが、全体がきわめて精神分析的な作品である。(写真下は、下男のジャンを演じる城田優とジュリー役の小野ゆり子、二人とも若々しくて美しい)

この作品の主題は、深い女性憎悪であり、古い結婚制度のもとで抑圧されたジュリーの母は、夫の伯爵を激しく憎悪しており、幼少の娘には男装させて男の子のすべきことをやらせて育てたので、ジュリーは女性性を自らのものにすることができなかった。夫から女として愛されなかった母は、自分の女性性を愛せずに嫌悪することになり、それが娘をジェンダー・フリーで育てることにより、娘も自分の女性性を嫌悪するようになった。一方、下男のジャンは、やはり伯爵家の下男の家に育ち、幼少時からジュリーをすぐそばに見て育ち、美しいジュリーに対する性的欲望を秘めているが、身分違いのために自分のものにはならないので、彼女に対する憧れと憎悪を併せ持っていた。二人が育ったこうした背景は、舞台では二人の回想の会話の中で簡潔に語られるだけなので、それが重要であることにやや気づきにくい。スウェーデンで作られた映画版(1951)は、二人の過去を映像で示すのでよく分るのだが、演劇は、観客の想像力に委ねる部分が多いのだ。

本作の凄いところは、性的な関係をもった男女の「主人と奴隷の弁証法」(ヘーゲル)が激しく描かれているところだろう。興奮とアルコールのせいで、思いもかけず体を許してしまったジュリーだが、そうなると、彼女をものにしてしまったジャンの態度は一変し、それまでの卑屈な召使の態度をかなぐり捨てて、主人のように振る舞う。「堕ちたお嬢様」のジュリーはジャンの奴隷になってしまった。「私に命令して!命令して!」と叫んで懇願するジュリーに対して、居丈高に振る舞うジャンの快感は、奴隷が主人になった束の間の快感である。というのも、他方では、ジャンの身体には、主人の伯爵に対する「奴隷性」が骨の髄まで沁み込んでおり、伯爵が帰宅してベルが鳴り伝令管で伯爵の声を聴いた途端、彼は奴隷に戻り、「お嬢様、私は伯爵さまの忠実な召使でございます」と、ジュリーから冷ややかな距離を取る。ジュリーは「自己責任」を感じて、ナイフを手にとぼとぼと納屋に向かう。小川絵梨子の演出は、この作品の本質をよく表現していると思う。