ギリシア悲劇『エレクトラ』

charis2017-04-22

[演劇] ギリシア悲劇エレクトラ』 世田谷パブリックシアター 4月22日


(写真右は、クリュタイメストラ白石加代子と、エレクトラ高畑充希、写真下は、エレクトラと、弟オレステス村上虹郎)

俳優も演技も素晴らしい舞台だったが、上演台本(笹部博司作)にやや問題があると思う。『エレクトラ』は、アイスキュロスソフォクレスエウリピデスの三人がそれぞれ戯曲を書いており、内容が微妙に違うところも面白いのだが、今回の『エレクトラ』は、ソフォクレス版を中心としながらも、他の二人の作品と組み合わせて作っている。たとえば、クリュタイメストラが自分の乳房を見せて、母を殺そうとするオレステスを動揺させるシーンは、アイスキュロス版は舞台で実演され、エウリピデス版では隣室でのこととして言葉で報告され、ソフォクレス版にはないが、本舞台では、アイスキュロス版を使っている。それはよいのだが、本作は、『エレクトラ』以外の作品もいろいろ組み合わせて、全体の物語を作っている。復讐劇の発端であるエレクトラの姉イピゲネイアが生贄にされる『アウリスのイピゲネイア』と、エレクトラオレステスが「母殺し」の後、復讐の女神エリュニスに追われて苦しむ『オレステス』の一部を加えたのは、物語の全体を描くために必要なことは分かるが、イピゲネイア救出の『タウリケのイピゲネイア』まで加えたために、話が複雑になりすぎた。作品『エレクトラ』だけが持っている重要な要素、すなわち、母と娘の葛藤から「エレクトラの母殺し」に至る過程だけを前景に出せばよいので(この舞台でも、それはよく描かれていたが)、それ以外の部分は不要ではないだろうか。(写真下は、アガメムノン(赤麿児)を殺すクリュタイメストラと、クリュタイメストラを殺すオレステス


あと、「デウス・エクス・マーキナー(機械仕掛けの神)」が、アポロンとアテナと二度出てくるが、近代的なヒューマニズム解釈になっているので、何かおかしい。ゲーテ改作の『タウリスのイピゲネイア』だけでなく、バートン版の『グリークス』も、近代ヒューマニズムの解釈が色濃いので、これは我々の時代がギリシア悲劇を「どう受け止めたいのか」に関わる大きな問題かもしれない。『エレクトラ』はやはり、『オイディプス王』がそうであるように、父/息子の葛藤に加えて母/娘の葛藤に注視し、男性性/女性性という「人間の深い秘密」あるいは「家族の深い闇」を見詰めているのだと思う。斉藤環『母は娘の人生を支配する ― なぜ「母殺し」は難しいのか』は、エレクトラ・コンプレックスを解明した名著だが、副題から分かるように、息子による「父殺し」は普遍的であるのに対して、娘による「母殺し」はきわめて希である。それにも関わらず、それが起きてしまったのが『エレクトラ』であり、それが『エレクトラ』を非常にユニークな作品にしている。アイスキュロス版では、「母殺し」はオレステス主導であり、エレクトラは後半には登場しないが、ソフォクレス版とエウリピデス版では、実際に手を下すのはオレステスであるにしても、それをリードするのはエレクトラである。そのような違いこそ重要であり、娘の「母殺し」は難しいにも関わらず起きてしまったのが『エレクトラ』の真の主題である。斉藤環によれば、娘は自分の「女性性」を母から受け継ぐのだが、母が父との幸福な結婚であれば、母は自らの「女性性」を肯定し、それを娘にうまく継承させられるが、母と夫との結婚が不幸なものであれば、娘に女性性をうまく継承させることはできない。クリュタイメストラエレクトラの関係はまさにそれである。(写真下は、機械仕掛けの神のアポロン)

上演台本にやや問題はあるが、俳優は素晴らしかった。白石加代子クリュタイメストラは4度目というから、彼女以外は、この役はなかなかできないのだろう。高畑充希エレクトラは、生動感にあふれ、可愛らしく瑞々しいが、それでいて十分な迫力があった。エレクトラは、母から女性性を受け継げず、ものすごく屈折した性格になってしまった「うざい女」である。『グリークス』の寺島しのぶも素晴らしかったが、高畑充希エレクトラも、それに劣らず名演だと思う。演出は鵜山仁。(写真下はエレクトラ。水瓶を頭に載せているのはエウリピデス版による。)