大池容子・うさぎストライプ『バージン・ブルース』

charis2017-05-12

[演劇] 大池容子作・演出『バージン・ブルース』 駒場アゴラ劇場 5月11日


(写真右は、娘役の小瀧万梨子、結婚式でウェディングドレス姿、写真下はポスター、母親ではなく父親が二人いて、左から中丸新将志賀廣太郎)

今週は、小劇場系の演劇を二つ見た。8日には劇団・地点『ヘッダ・ガブラー』を見るために京都まで行って一泊した。地点は1月の『ロミオとジュリエット』に続いて二度目だが、まったく面白くなかった。ポストドラマ演劇といわれるもので、役者たちは並んだ椅子に座って体をゆすぶりながら、さまざまな「声」を出す。その「声」が、身体全体の多様なリズムとのさまざまなウェーブを引き起こして、声を含んだ身体パフォーマンスが「不協和音」のように響く。こうした新しい様式性が地点の魅力なのだろうが、ここまで「物語」を完全に解体してしまえば、これはもう『ロミジュリ』でも『ヘッダ・ガブラー』でもなく、「筋」がなければ演劇とは言えない。


それに対して、大池容子作・演出の『バージン・ブルース』は素晴らしかった。大池は1986年生まれの若い劇作家で、「うさぎストライプ」という劇団を主宰しているが、劇団「青年団」の人でもある。本作は、とても変った物語で、父親が3人いて母親がいない女の子が育って、結婚する。性同一性障害が暗喩されているのかもしれないが、全員が性的に「普通ではない」人々である。志賀廣太郎が演じる「父親」は、男性だが乳房が大きい身体を持っており、幼児期には女の子として育てられたが、小学校入学以来、男の子として学校に行ったので、ものすごくイジメられた辛い人生を送ってきた。中丸新将演じるもう一人の「父親」は、小学校以来の彼と同級生の親友で、二人はまったくうだつの上がらない生徒だったが、中学のときブラックという名の美少年(小瀧万梨子)が転校してきたので、彼の子分になって高校、大学と一緒に進み、学生運動の挫折によりバラバラになる。が、ブラックは男なのに一人の女の子を産み、出産と同時に死去。その後、志賀廣太郎中丸新将が演じる「二人の父親」に育てられた女の子が結婚式を迎え、二人の「父親」にエスコートされてバージンロードを歩くというのが、タイトルの『バージン・ブルース』。だが、そのエスコートの途中で志賀廣太郎が演じる「父親」は倒れて死に、結婚式は葬式になってしまった。花嫁のウェディングドレスは黒い喪服に変っている。そして喪服でたった一人結婚式に残った彼女が、「幸せになること」を誓って終幕。(写真下は、志賀廣太郎演じる胸が大きい「父親」)

何という切ない愛の物語なのだろう!「普通に生きること」はなかなか難しい。誰もがどこか「普通でない」ところを抱えているからだ。でも、誰もが「普通に生きたい」と願い、愛と相互承認を求めて激しくもがき、生き、そして死んでゆく。人間という生き物のその切なさが、本作の主題である。この劇には「産む女」が一人も出てこない。でも、ブラックが男なのに赤ん坊を産むのは、実は荒唐無稽ではない。ギリシア神話でもっとも重要な二人の女神、アフロディーテも(海の泡の精液から)アテナも(ゼウスの額から)、男から生まれている。ブラックは男女両性を兼ねた象徴なのである。本作は、ややアクロバティックだが、演劇の原点を踏まえた名作だと思う。舞台の進行は、リアルな結婚式の会場で、二人の父親と、もう一人の亡き父親であり娘でもある花嫁の「これまでの歩み」が走馬灯のようにビデオ上映されるという設定で、ビデオの中味を生身の俳優が実演する。結婚式でのビデオ上映という「劇中劇」は、現実の結婚式で行われる形式であり、これを使って過去を「再演」しつつ、アリストテレスの三一致の法則を踏まえたのは、日本の能がそうであるように、とてもうまい。


すでに名優として名高い中丸新将志賀廣太郎の「渋さ」はとてもよかったが、美少年、美青年、5歳の幼女、そしてセーラー服をとっかえて、女子中学生、女子高生、さらには成人した花嫁まで一人で演じる小瀧万梨子は輝くように美しい!まるで 『十二夜』のヴァイオラを間近で見ているようだ。美青年ブラックは両性具有の男性性のアレゴリー、二人の「父親」に育てられた娘の彩子は、両性具有の女性性のアレゴリー。だから神話的に美しいところが、トランスジェンダーヴァイオラと共通する。小瀧万梨子という一人の役者にこれだけ多重の役をやらせるのは、普通は弱小劇団ゆえの「やむをえなさ」と思うだろう。だが、本作はそうではない。同一の彼女が多重の役をやるからこそ、時間軸と駆け抜けた人生を表現できるのだ。そして、男性性と女性性という、二つの非同一性の同一性も。