新国立劇場『ジークフリート』

charis2017-06-01

[オペラ] ワーグナージークフリート』   新国立劇場 6月1日


(写真右は、終幕におけるブリュンヒルデ(R.メルベート)とジークフリート(S.グールド)、二人の絶唱は筆舌に尽くしがたい、下は舞台写真、色彩の美しさと光の調和が印象的)



一昨年から始まったゲッツ・フーリドリヒ演出、飯守泰次郎指揮の『指環』は、これで三つ目。この『ジークフリート』は、奇をてらわない演出で、原作に忠実な舞台だが、歌、音楽、演劇的要素のどれをとっても素晴らしいものだった。そして『指環』がきわめて精神分析的な作品であることにあらためて衝撃を受けた。第一幕、森の中で動物とともに育った無垢の少年ジークフリートにはどこかメルヘン的な要素があり、第二幕、彼が大蛇を討ち取って英雄となり、第三幕、彼は、祖父ヴォータンの妨害をはねのけ、火の中に眠る神の娘ブリュンヒルデを救出する。ジークフリートが育ての父ミーメを殺し、ヴォータンの槍を折るのも、まさにフロイトのいう「父殺し」を象徴している。第三幕は、『ワルキューレ』終幕で彼女が父神によって火の中に眠らされた場面に応答するもので、英雄ジークフリートは初めて人間の男としての男性性に目覚め、神の娘ブリュンヒルデは初めて人間の女としての女性性に目覚め、二人が愛を交わすシーンは、信じがたいほど美しい。しかし、二人の性愛にはどこかぎくしゃくした感じがあり、神の娘が人間の女になる悲劇を孕んでいるのだと思う。あるいは、我らヒトという生き物の男性性と女性性の葛藤を象徴しているのかもしれない。写真下は、第三幕のブリュンヒルデジークフリート


『指環』の真の主人公である王女ブリュンヒルデは「愛」のアレゴリーであるが、たんに「女」であるだけでなく「母」でもあり、ユングの言う典型的な「父の娘」であるから、父娘の愛をも含む複雑な「女性性」のアレゴリーと言うべきだろう。血縁的には彼女はジークフリートの伯母になる。第三幕のブリュンヒルデの科白は、非常に深みがある。「私はずっと、あなたを想ってきた。ヴォータンの思いを察したのは、私だけでした。でもそれを言葉にすることはできなかった。私は推測したというより、感じとったの。ヴォータンの密かな思いのために、私は懸命に戦い、争った。またそのために、当のヴォータンに逆らい、罰を受けて償わなければならなかった。それは、考えたすえのことではなく、直感的にやったことでした。そのヴォータンの密かの思いとは――、もうわかるでしょう――、私があなたを愛するということだったの!」 写真下は第三幕冒頭、ブリュンヒルデの父神ヴォータンと、母神エルザ。ただしエルザはレイプされてブリュンヒルデを産んだので、納得はしていない。

しかしブリュンヒルデは、ジークフリートという真の英雄に求愛されたにも関わらず、人間の女として、彼の胸に素直に飛びこんでゆくことができない。生まれて初めて女というものを見て「恐れ」の感情を初めて持ったジークフリートと同様、ブリュンヒルデのこの恥じらいとためらいと逡巡こそ、男性性と女性性の葛藤を深く描き出しており、この第三幕は『指環』全体の頂点かもしれない。
「あれは、私の胸を守っていた鋼の胸当て、鋭い剣がまっ二つに切り離したのね。こうして乙女は身を守るものを奪われました。鎧も兜もはぎとられ、私は裸同然の、哀れな女!/(ジークフリートに激しく抱きすくめれられたブリュンヒルデは、びくりと身をすくめて、恐怖のあまり、力いっぱい彼を突き放し、彼から遠のく)/神でさえ、私には近づかなかった! 英雄たちも、清い乙女を畏れて、首をたれた。私はけがれを知らぬ身で、ワルハラを離れた。それが、なんということ! 情けない、このあさましい辱め、私を目ざめさせた人に傷つけられるとは! 鎧も兜も奪われてしまった私は、もうブリュンヒルデではないわ!/・・・どうか、私をそっとしておいて! そんなに激しく近寄らないで! 荒々しい力で、私をねじ伏せないで! でないと、あなたにとって大切な女のからだが砕けてしまうわ! ですから、私に触らないで!」

 そんな彼女を口説くのに、ジークフリートはてこずるが、口説きの言葉の中で決定的だったのは、「こよない喜びの人よ、笑って生きよう!」という「笑い」の強調である。女を一度も見たことのない無垢な英雄の口説き文句が、なかなか鋭い(笑)。ジークフリートに抱きしめられているうちに、ブリュンヒルデは次第に人間の女のエロスに目覚めてゆく。
「今、私はあなたのもの? 神のような落ち着きが、大波たてて荒れ狂い、純潔の光も狂熱へと燃え上がる。天上の知恵が、愛の歓声に追われて吹き飛ばされる! 今、私はあなたのもの? ジークフリートジークフリート! あなたは燃えてこないの? あなためがけて駆け巡る血潮の熱さを、あなたは感じないの? ジークフリート、あなた、こわくないの、狂おしい情熱に昂ぶる女が?」
こうして彼女は<人間の女>になった。だが、これに続くブリュンヒルデの言葉ははるかに素晴らしい。ワーグナーのト書きを含めて引用しよう。
「(ジークフリートが思わず手を離すと、ブリュンヒルデは晴れやかな笑い声をあげる。それは喜びのあまりの笑いだ。)まあ、子供のような勇士! 栄光にみちた若者! 自分のやってのけたすばらしい手柄を、覚えてもいないのね! 笑いながら、あなたを愛さずにはいられない。笑いながら、私は愛に盲いるの。笑いながら、あなたと私、ともに滅びましょう、笑いながら、ともに堕ちていきましょう!」(以上、引用は高橋康也訳『ジークフリート新書館、写真下は森の小鳥たち、本演出では、ジークフリートを女へと導くエロスの象徴になっている。そういえば会場には皇太子が来ていた、彼を見るのは何回目だろうか、きっと本当にオペラが好きなのだと思う)

4分ほどの動画。ヴォータンの槍が真っ二つにされるところや、最後の絶唱も。
https://www.youtube.com/watch?v=yg8HAZtYBTw&feature=youtu.be

6分のゲネプロ動画もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=jIly8BuApGc